『日本書紀』慶長版は
「十三年夏四月辛酉朔天皇詔皇太子大臣及諸王諸臣共同發誓願以始造銅繡丈六佛像各一軀乃命鞍作鳥爲造佛之工是時髙麗國大興王聞日本國天皇造佛像貢上黃金三百兩閏七月已未朔皇太子命諸王諸臣俾着褶冬十月皇太子居斑鳩宮十四年夏四月乙酉朔壬辰銅繡丈六佛像並造竟是日也丈六銅像坐於元興寺金堂時佛像髙於金堂戸以不得納堂於是諸工人等議曰破堂戸而納之然鞍作鳥之秀工以不壞戸得入堂即日設齋於是會集人衆不可勝數自是年初毎寺四月八日七月十五日設齋五月甲寅朔戊午勅鞍作鳥曰朕欲興隆內典方將建佛刹肇求舍利時汝祖父司馬達等便獻舍利又於國無僧尼於是汝父多湏那爲橘豊日天皇出家恭敬佛法又汝姨嶋女初出家爲諸尼導者以修行釋教今朕爲造丈六佛以求好佛像汝之所獻佛本則合朕心又造佛像既訖不得入堂諸工人不能計以將破堂戸然汝不破戸而得入此皆汝之功也則賜大仁位因以給近江國坂田郡水田二十町焉鳥以此田爲天皇作金剛寺是今謂南淵坂田尼寺秋七月天皇請皇太子令講勝鬘經三日說竟之是歲皇太子亦講法華經於岡本宮天皇大喜之播磨國水田百町施于皇太子因以納于斑鳩寺十五年春二月庚辰朔定壬生部戊子詔曰朕聞之曩者我皇祖天皇等宰世也跼天蹐地敦禮神祗周祠山川幽通乾坤是以陰陽開和造化共調今當朕世祭祠神祗豈有怠乎故群臣爲竭心冝拜神祗甲午皇太子及大臣率百寮以祭拜神祗」
【十三年の夏四月の辛酉が朔の日に、天皇は、皇太子と大臣及び諸王と諸臣に詔勅して、一緒に同じがんかけを発起して、金銅の丈六(?1m30)の仏像を、各々一躯を造った。それで鞍作の鳥に命じて、佛造りの棟梁にした。この時に、高麗の国の大興王は、日本国の天皇が、佛像を造ると聞いて、黄金三百両を献上した。閏七月の己未が朔の日に、皇太子は、諸王と諸臣に命じて、しもべと同じような腰巻きを着せた。冬十月に、皇太子は、斑鳩宮に居た。十四年の夏四月の朔が乙酉の壬辰の日に、金銅の丈六の佛像一対が出来上がった。この日に、丈六の銅像を元興寺の金堂に鎮座させた。その時、佛像が、金堂の戸より高くて、堂に納めることが出来なかった。そこで、諸々の技術者達は、話し合って、「堂の戸を壊して納めよう」といった。しかし鞍作の鳥の優秀な技術で、戸を壊さないで堂に入れることが出来た。その日に祭壇を設けて拝み、そこに集まった人たちは数えきれなかった。この年からはじめて寺毎に、四月の八日と七月の十五日に祭壇を設けて礼拝した。五月の朔が甲寅の戊午の日に、鞍作の鳥に「私は、経典を書き起こして流布しようと思う。丁度、寺院を建立しようと、はじめて佛の骨を求めた。その時お前の租父の司馬の達等が、すぐに佛の骨を献上した。そして国に僧尼がいなかったので、お前の父の多須那が、橘豊日の天皇の為に出家して、佛法を恭しんで敬った。またお前の娣の嶋女が、はじめて出家して、諸々の尼の導者として、釈迦の教えを修行した。今、私は、丈六の佛を造る為に、よい佛像を求めた。お前が戯れに造った佛の試作品は、私の気持ちに適った。また佛像を造り終わって、堂に入れることが出来なかった。諸々の技術者が、考えても出来ず、今にも堂の戸を壊そうとした。それなのにお前は、戸を壊さないで入れることが出来た。これは全てお前の功績だ」と詔勅して、大仁の位を与えた。その為近江国の坂田の郡の水田二十町を貰った。鳥は、この田で、天皇の為に、金剛寺を建立した。これは今、南淵の坂田尼寺という。秋七月に、天皇は、皇太子に頼んで、勝鬘經(在家仏教を認める重要な経典)を説きあかさせた。三日かかって説き終わった。この歳に、皇太子は、また法華經(大乗仏教)を岡本宮で説きあかした。天皇は、大変喜んで、播磨国の水田百町を皇太子にほどこした為斑鳩寺に納めた。十五年の春二月の庚辰が朔の日に、壬生部を定めた。戊子の日に、「私は聞いたのだが、昔の私の皇祖や天皇達は、世の中をつかさどった。天に対して縮こまり、地に対しては音をたてないように歩いて、神祗を手厚く敬ってきた。全ての山河を祀り、人が容易に知りえないところに天地全てを導いた。それで、陰も陽も森羅万象すべてがなごみ始めて、神が造ったすべての物がみな整った。今、私の世になって、神祇を祭祀することを、どうして怠ることがあろうか。それで、役人共は心から神祇を拝みなさい」と詔勅した。甲午の日に、皇太子は大臣と、役人を率いて、神祇を祭り拝んだ。】とあり、閏十月乙亥朔は計算では7月が閏月なので、10月が閏月なら閏10月2日になり、10月は小の月なので大の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。
『上宮聖徳法王帝説』に「佛工鞍作鳥案祖父司馬達多須奈或本云播磨水田二百七十三町五段廿四歩云云又本云三百六十町云云有本云請願造寺恭敬三寶十三年辛丑春三月十五日始浄土寺云云注云辛丑年始平地癸卯年立金堂之戊申始僧住」とあり推古天皇十四年「播磨國水田百町施于皇太子因以納于斑鳩寺」と皇太子でも百町を与えただけなので、飛鳥天皇のための寺の法興寺の土地であることがわかり、この推古十三年は『船王後墓誌』「阿須迦天皇之末歳次辛丑」の641年の飛鳥天皇の病気治癒を願った法興寺の金堂の記述で他の記事を結合している。
「髙麗國大興王聞日本國天皇」と記述され、605年は秦王国で641年は倭国、日本国は540年頃までの巨勢王朝で、『三国史記』に出現する高句麗の興は519年即位530までの「安臧王諱興安」で、『梁書』に「宋大明二年賓國嘗有比丘五人游行至其國流通佛法經像」と457年に仏教が入り像もあり、敏達天皇六年に「遂安置於難波大別王寺」と大別王の邸宅に寺があった。
当然、金剛寺は641年以降で、「講法華經於岡本宮」は当然まだ岡本宮がないのだから岡本天皇14年すなわち大化5年699年以降に記述した白村江の頃講じたと思われ、難波宮が岡本宮で、白雉三年四月「請沙門惠隱於内裏使講無量壽經」が664年4月に入鹿が大法要を行ったと思われ、『日本書紀』の推古・舒明天皇が天智天皇の命令で記述されたことを物語っていて、乙巳の変以降は天智天皇までを700年頃に天智天皇の子や孫が661年の天智天皇の立太子から記述したことを物語っている。
仁徳天皇四年に「爲大兄去來穗別皇子定壬生部」と葛城氏の為に壬生部が置かれているので、おそらく、「拜神祗」は586年頃の用明元年の内容と思われ、仏教を取り入れようとして反対され、神祇を祀らせる命令を出したのだろうか。
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