2020年8月5日水曜日

最終兵器の目 推古天皇3

 

 『日本書紀』慶長版は

七年夏四月乙未朔辛酉地動舍屋悉破則令四方俾祭地震神秋九月癸亥朔百濟貢駱駝一疋驢一疋羊二頭白雉一?()八年春二月新羅與任那相攻天皇欲救任那是歲命境部臣爲大將軍以穗積臣爲副將軍則將万餘衆爲任那擊新羅於是直指新羅以泛海往之乃到于新羅攻五城而拔於是新羅王惶之舉白旗到于將軍之麾下而立割多多羅素奈羅弗知鬼委陀南加羅阿羅々六城以請服時將軍共議曰新羅知罪服之強擊不可則奏上爰天皇更遣難波吉師神於新羅復遣難波吉士木蓮子於任那並撿校事狀爰新羅任那王二國遣使貢調仍奏表之曰天上有神地有天皇除是二神何亦有畏乎自今以後不有相攻且不乾舩柂毎歲必朝則遣使以召還將軍將軍等至自新羅即新羅亦侵任那九年春二月皇太子初興宮室于三月甲申朔戊子遣大伴連囓于髙麗遺坂本臣糠手于百濟以詔之曰急救任那夏五月天皇居于耳梨行宮是時火雨河水漂蕩滿于宮庭秋九月辛巳朔戊子新羅之間諜者迦摩多到對馬則?()以貢之流干上野冬十一月庚辰朔甲申議攻新羅

【七年の夏四月の朔が乙未の辛酉の日に、地震があって舍屋が残らず破壊された。それで全国に命じて、地震の神を祭らせた。秋九月の癸亥が朔の日に、百済は、駱駝を一匹とロバを一匹と羊を二頭と白雉を一隻、献上した。八年の春二月に、新羅と任那が戦った。天皇は、任那を救おうと思った。この歳に、境部の臣に命令して大將軍とした。穗積の臣を副將軍とした。それで一萬余の兵士を率いて、任那の為に新羅を撃った。そこで、直接、新羅を目指して、船を海に浮かべて進んだ。それで新羅について、五つの城を攻めて奪った。それで、新羅の王が、あわてて白い旗を挙げて、將軍を示す旗の下にやって来て立ちすくんだ。多多羅と素奈羅と弗知鬼と委陀と南迦羅と阿羅羅の、六つの城を割いて、降伏したいと願った。その時に、將軍は、共議して「新羅は、罪に気付いて降伏した。強いて殺さなくてもよかろう」と言った。それで奏上した。そこで天皇は、また、難波の吉師の神を新羅に派遣した。また、難波の吉士の木蓮子を任那に派遣した。同時に現状を調査させた。それで新羅と任那の二国は、使者を派遣して年貢を献上した。それで「天に神がいる。地に天皇がいる。この神以外に、何処におそれかしこまる者があるでしょうか。今より後、互いに争ってはならない。また船の柁が乾く前に、毎年必ず朝貢せよ」と表で命じた。それで使者を派遣して、將軍を召喚した。將軍達が、新羅から帰った。するとすぐに新羅が、またもや任那を侵略した。九年の春二月に、皇太子は、はじめて宮室を斑鳩に建てた。三月の朔が甲申の戊子の日に、大伴の連の囓を高麗に派遣して、坂本の臣の糠手を百済に派遣して、「いそいで任那を救え」と詔勅した。夏五月に、天皇は、耳梨の行宮にいた。この時に大雨が降った。河の水が溢れだして、宮庭まで水に浸かった。秋九月の朔が辛巳の戊子の日に、新羅のまわしものの迦摩多が、対馬にやってきた。それで捕えて貢上した。上野に流した。冬十一月の朔が庚辰の甲申の日に、新羅の攻撃方法を考えた。】とあり、9年三月甲申朔は2月30日で2月が小の月なら標準陰暦と合致し、あとは標準陰暦と合致する。

この新羅との戦いは欽明天皇二三の「新羅更擧白旗投兵隆首河邊臣瓊缶元不曉兵對擧白旗空爾獨進」の記事で欽明天皇十五年の「立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」と554年に俀国の王朝が交代し、欽明天皇十六年が元年とする王朝の二二年は九年で推古九年と合致する。

前項で述べたように、601年には新羅に不穏な動きが無く、『三国史記』の562年眞興王二十三年に「秋七月百濟侵掠邊戶王出師拒之殺獲一千餘人九月加耶叛王命異斯夫討之斯多含副之斯多含領五千騎先馳入栴檀門立白旗城中恐懼不知所爲異斯夫引兵臨之一時盡降論功斯多含爲最王賞以良田及所虜二百口斯多含三讓王强之乃受其生口放爲良人田分與戰士國人美之」と良く合致する内容が記述されている。

太子が東宮から出て斑鳩に追い出されているが、これは、太子から降格させられ新たな太子が出来たことを示していて、それが、本来なかった用明天皇の皇太子、すなわち、馬子の兄の子の正統な倭国の後継者の彦人である。

推古天皇が書いた『日本書紀』に出現する豊御食炊屋姫の娘の小墾田皇女の婿で敏達天皇すなわち倭国の稲目の子で、母は敏達天皇四年「息長眞手王女廣姫爲皇后是生一男二女其一曰押坂彦人大兄皇子」と息長眞手王の娘で、彦人の皇子が息長足日廣額と名前と人物が良く一致し、推古天皇が聖徳太子の子ではなく、『日本書紀』「小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子・・・田眼皇女是嫁於息長足日廣額天皇」、『古事記』「日子人太子娶庶妹田村王亦名糠代比売命生御子坐崗本宮治天下之天皇」と推古天皇の宮室の媛の子だったから田村皇子を推挙したのだ。

『船王後墓誌』に「乎娑陀宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝」と629年が乎娑陀宮治天下天皇、634年から等由羅宮治天下天皇、そして、634年の8年後すなわち推古八年の642年が阿須迦宮治天下天皇の末で翌すなわち推古九年から皇極天皇元年十二月「天皇遷移於小墾田宮」と小墾田天皇で豊御食炊屋姫の娘で押坂彦人大兄皇子の妻の生まれ育った土地である。

そして、地震のための祭祀も仏教ではなく神を祀り、百済の献上で日本を味方につけてから新羅に侵略してこれも良く一致し、この戦いで任那から手を引いたようで、これ以降668年文武王八年「奈麻緊周子能晏年十五歳呈加耶之舞王見容儀端麗」と舞いを献上しているのが任那の人物のようだ。

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