2020年8月7日金曜日

最終兵器の目 推古天皇4

  『日本書紀』慶長版は

十年春二月巳酉朔來目皇子爲擊新羅將軍授諸神部及國遣(造)伴造等幷軍衆二万五千人夏四月戊申朔將軍來目皇子到于筑紫乃進屯嶋郡而聚舩舶運軍粮六月丁未朔巳酉大伴連囓坂本臣糖手共至自百濟是時來目皇子臥病以不果征討冬十月百濟僧觀勒來之仍貢暦本及天文地理書幷遁甲方術之書也是時選書生三四人以俾學習於觀勒矣陽胡史祖玉陳習暦法大友村主髙聡學天文遁甲山背臣日並立學方術皆學以成業閏十月乙亥朔已丑髙麗僧々隆雲聡共來歸十一年春二月癸酉朔丙子來目皇子薨於筑紫仍驛使以奏上爰天皇聞之大驚則召皇太子蘇我大臣謂之曰征新羅大將軍來目皇子薨之其臨大事而不遂矣甚悲乎仍殯于周芳娑婆乃遣土師連猪手令掌殯事故猪手連之孫曰娑婆連其是之縁也後葬於河內埴生山岡上夏四月壬申朔更以來目皇子之兄當麻皇子爲征新羅將軍秋七月辛丑朔癸卯當麻皇子自難波發舩丙午當麻皇子到播磨時從妻舍人姫王薨於赤石仍葬于赤石檜笠岡上乃當麻皇子返之遂不征討冬十月已巳朔壬申遷于小墾田宮十一月巳亥朔皇太子謂諸大夫曰我有尊佛像誰得是像以恭拜時秦造河勝進曰臣拜之便受佛像因以造蜂岡寺是月皇太子請于天皇以作大楯及靫又繪于旗幟十二月戊辰朔壬申始行冠位大德小德大仁小仁大禮小禮大信小信大義小義大智小智幷十二階並以當色絁縫之頂撮倊如囊而着縁焉唯元日着髻花

【十年の春二月の己酉が朔の日に、来目の皇子を新羅の攻撃の將軍にした。諸々の神部と国造と伴造達、併せて兵士二萬五千人を授けた。夏四月の戊申が朔の日に、將軍の来目の皇子が、

筑紫に到着した。それで進軍して嶋郡に駐屯して、船舶を集めて兵糧を運びこんだ。六月の朔が丁未の己酉の日に、大伴の連の囓と坂本の臣の糠手が、共に百済から帰った。この時に、来目の皇子は、病に臥せって征討出来なかった。冬十月に、百済の僧の觀勒がやってきた。それで暦の本と天文地理の書巻、併せて 占星術の技術書を献上した時に、勉強をしている人三・四人を下僕にして、觀勒について学ばせた。陽胡の史の祖の玉陳は、暦を習った。大友の村主の高聰は、占星術を学んだ。山背の臣の日立は、占星術の技術を学んだ。皆は割り当てをすべて学んだ。潤十月の朔が乙亥の己丑の日に、高麗の僧の僧隆と雲聰が、共にやって来て帰化した。十一年の春二月の朔が癸酉の丙子の日に、来目の皇子が、筑紫で薨じた。それで急使で、奏上した。ここで天皇は、それを聞いてとても驚いて、皇太子と蘇我の大臣を呼び出して、「新羅を征つ大將軍の来目の皇子が薨じた。その重大事の為に、新羅征伐が出来なくなった。とても悲しい事だ」と言った。それで周芳の娑婆に安置した。それで土師の連の猪手を派遣して、殯の事を任された。それで、猪手の連を娑婆の連と言ったのは、これが由来だ。後で河内の埴生の山の岡の上に葬った。夏四月の壬申が朔の日に、さらに来目の皇子の兄の當摩の皇子を新羅征伐の將軍とした。秋七月の朔が辛丑の癸卯の日に、當摩の皇子は、難波から出港した。丙午の日に、當摩の皇子は、播磨に着いた。その時に、一緒に付き従った妻の舍人の姫王が、赤石で薨じた。それで赤石の桧笠の岡の上に葬った。それで當摩の皇子は帰ってきた。とうとう征討しなかった。冬十月の朔が己巳の壬申の日に、小墾田の宮に遷都した。十一月の己亥が朔の日に、皇太子が、諸々の大夫に「私は、尊い佛像を所有している。誰かこの像を手にして仏を敬い拝まないか」と言った。その時、秦の造の河勝が進み出て「私が、拜みましょう」と言った。それで佛像を受け取って蜂岡の寺を建立した。この月に、皇太子は、天皇に願い出て、大楯と靭を作って、また旗じるしを彩取り描いた。十二月の朔が戊辰の壬申の日に、はじめて冠位を制定した。大徳・小徳・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智、併せて十二の階層にした。それに対応する色のふとぎぬを縫った。頭頂には全てにつまめる程度の嚢のようにして、縁取りを着けた。ただ元日には枝(梅の花?)のかんざしを挿した。】とあり、十年二月己酉朔は1月30日、四月戊申朔は3月30日、十一年二月癸酉朔は1月30日、四月壬申朔は3月30日と前月が小の月なら、十年閏十月乙亥朔は7月が閏月で10月が閏月なら10月2日、十一年十一月己亥朔は11月2日で10月は小の月で大の月なら標準陰暦と合致し、それ以外は合致する。

遷于小墾田宮」は用明天皇すなわち馬子の宮の年数で天皇の宮殿が遷れば当然馬子と一緒について行くのは当然である。

この出兵は『三国史記』の642年義慈王二年の「八月遣將軍允忠領兵一萬攻新羅大耶城」に対する援軍で大伴連囓と坂本臣糖手は推古紀以降出現せず馬子の配下のようで、新羅との緊密さが解り、それに対して娑婆連は皇極天皇紀まで出現し斑鳩の王たちと戦っていて、俀国側の人物のようで、来目皇子の死は親新羅の俀国による暗殺で、死因が解らないように娑婆連が遺体を守ったのだろう。

官位12階は『隋書』に「内官有十二等一曰大德次小德次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信」、「小徳阿輩臺」と記述されて、俀国の官位がわかり、俀国資料のみでこの冠位を使用し、推古紀以外では皇極・大化に記述されそれ以外の人物にこの冠位を使った記述が無く、『舊唐書』「無冠帶・・・佩銀花長八寸左右各數枝以明貴賤等級衣服之制頗類新羅」と冠帶がないこともそれを証明する。

それで、この推古11年が法興11年601年か敏達立太子の11年の565年かだが、開皇二十年600年から大業三年607年、明年608年の間に官位を制定したのなら恐らく『隋書』に記述し、しかも、官位も無く天子と呼ぶのはおこがましく、太極宮,東宮,掖庭宮を少なくとも持ち、「今里長也」と条里は無理としてもそれに似ており、「無城郭」と城壁に囲まれた城ではなく、「戸可十万」の都市に宮殿があり、元日につける髻花と「以金銀鏤花為飾」も合致する。

すなわち、これらが揃って、自ら皇帝と呼ぶにふさわしい法興帝と自ら呼んだのであり、従って、565年に官位12階を制定したと思われ、「雖有兵無征戦」と戦争しないと言っているが、都にいる軍は少なく、都外に軍隊を配備して、「女多男少」は妻子は都に残して、都の外に田畑や工房があり、軍がいたということだ。

また、「自竹斯國以東皆附庸於俀」は中国に臣従して朝貢していた俀国が中国に承認された唯一つの日本国内の国で、名目上他の国が附庸していただけで、畿内の日本は昔から中国に臣従しない、逆に反抗した国だったのであり、『舊唐書』では「日本舊小國併倭國之地」と唐時代に日本と呼ばれた土地は元は倭と呼ばれ、唐時代の日本が昔小国で現在の日本の地を併せたと記述している。

すなわち、隋以前にあった日本を「倭國者古倭奴國也」の倭が征服し、倭から分裂した隋時代から絶縁されていた「魏志所謂邪馬臺者也・・・此後遂絶」の俀国が日本を破った倭を併合したと記述しているのだ。

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