『日本書紀』慶長版は
「十七年夏四月丁酉朔庚子筑紫大宰奏上言百濟僧道欣惠?(祢)爲首一十人俗七十五人泊于肥後國葦北津是時遣難波吉士德摩呂舩史龍以問之曰何來也對曰百濟王命以遣於吳國其國有亂不得入更返於本鄕忽逢暴風漂蕩海中然有大幸而泊于聖帝之邊境以歡喜五月丁卯朔壬午德摩呂等復奏之則返德摩呂龍二人而副百濟人等送本國至于對馬以道人等十一皆請之欲留乃上表而留之因令住元興寺秋九月小野臣妹子至自大唐唯通事福利不來」
【十七年の夏四月の朔が丁酉の庚子の日に、筑紫の大宰が、「百済の僧の道欣と惠祢が上の位の者となって僧が十人、仏門に入らない者が七十五人をつれて、肥後国の葦北の津に停泊している」と奏上した。この時に、難波の吉士の徳摩呂と船の史の龍を派遣して、「どうして来たか」と問いかけた。「百済の王が、命令して呉国に派遣した。その国が乱れて入国出来なかった。それで本国に帰ろうとした。急に暴風に逢って、黄海に漂流した。しかしとても幸運なことに、聖帝の国のはずれに停泊できた。それで喜んでいる」と答えた。五月の朔が丁卯の壬午の日に、徳摩呂達は、復命を奏上した。それで徳摩呂と龍、二人を返して、百済の人達に付き添わせて、本国に送り返した。対馬について、道士達十一人が、皆留まることを願い出た。それで上表を記してとどまらせた。それで元興寺に住んでいる。秋九月に、小野の臣の妹子達が、大唐から帰った。ただし通訳の福利だけ来なかった。】とあり、標準陰暦と合致する。
この百済僧の漂流は、敏達天皇立太子の俀国王17年のことで、『三国史記』の571年威德王 十八年「高齊後主又以王爲使持節都督東靑州諸軍事東靑州刺史」の朝貢の帰りの事で、「十九年遣使入齊朝貢」、「二十四年秋七月遣使入陳朝貢・・・十一月遣使入宇文周朝貢」、「二十五年遣使入宇文周朝貢」、「二十八年王遣使入隋朝貢」と毎年のように異なる王朝に朝貢して、「吳國其國有亂」と符合している。
そして、この残った百済僧によって、『隋書』の「敬佛法於百濟求得佛經始有文字」で欽明天皇十三年に「百濟聖明王・・・稻目宿祢試令禮拜大臣跪受而忻悅安置小墾田家」と百済仏教を知り、百済僧が漂流して自分の領地にやってきたのだから強引に残るように説得したのだろう。
すると、難波の吉士は俀国の臣下で難波は筑紫の難波ということが解り、これまで出てきた雄略天皇八年の「吉備臣小梨難波吉士赤目子徃救新羅」、安閑天皇二年「詔櫻井田部連縣犬養連難波吉士等主掌屯倉之税」、敏達天皇十三年「遣難波吉士木蓮子使於新羅遂之任那」、推古天皇六年「難波吉士磐金至自新羅而獻鵲二隻乃俾養於難波杜因以巣枝而産之」、推古天皇八年「難波吉師神於新羅復遣難波吉士木蓮子於任那並検校事状爰新羅任那王二國遣使貢調」とすべて新羅任那に関係する記事が倭国俀国記事で、『三国志』の「北岸狗邪韓國」は 任那のこと、その中に日本国の宮家の日本府が有ったことが解り、難波が筑紫の難波で、元興寺も筑紫にあった可能性がある。
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