『日本書紀』慶長版は
「三十二年夏四月丙午朔戊申有一僧執斧毆祖父時天皇聞之召大臣詔之曰夫出家者頓歸三寶具懷戒法何無懺忌輙犯惡逆今朕聞有僧以毆祖父故悉聚諸寺僧尼以推問之若事實者重罪之於是集諸僧尼而推之則惡逆僧及諸尼並將罪於是百濟觀勒僧表上以言夫佛法自西國至于漢經三百歲乃傳之至於百濟國而僅一百年矣然我王聞日本天皇之賢哲而貢上佛像及內典未滿百歲故當今時以僧尼未習法律輙犯惡逆是以諸僧尼惶懼以不知所如仰願其除惡逆者以外僧悉赦而勿罪是大功德也天皇乃聽之戊午詔曰夫道人尚犯法何以誨俗人故自今已後任僧正僧
都仍應撿校僧尼壬戌以觀勒僧爲僧正以鞍部德積爲僧都即日以阿曇連爲法頭秋九月甲戌朔丙子校寺及僧尼具錄其寺所造之縁亦僧尼入道之縁及度之年月日也當是時有寺四十六所僧八百十六人尼五百六十九人幷一千三百八十五人冬十月癸卯朔大臣遣阿曇連阿倍臣摩侶二臣令奏于天皇曰葛城縣者元臣之本居也故因其縣爲姓名是以冀之常得其縣以欲爲臣之封縣於是天皇詔曰今朕則自蘇我出之大臣亦爲朕舅也故大臣之言夜言矣夜不明日言矣則日不晩何辭不用然今當朕之世頓失是縣後君曰愚癡婦人臨天下以頓亡其縣豈獨朕不賢耶大臣亦不忠是後葉之惡名則不聽三十三年春正月壬申朔戊寅髙麗王貢僧惠灌仍任僧正」
【三十二年の夏四月の朔が丙午の戊申の日に、一人の僧がいて、斧を取って、祖父を殴った。
その時に天皇はそれを聞いて大臣を呼んで、「この出家した者は修行を経ずに悟りを開く三寶に帰依して、十分に戒律を身につけた。どうして戒律を破ることをきらって悔い改めるないで、簡単にひどいおこないをしてしまったのか。今、私は聞いたのだが、僧がいて祖父を殴った。それで、全ての諸寺の僧尼を集めて、取調べなさい。もしこの事が本当なら、重く罰しなさい」と詔勅した。そこで、諸々の僧尼を集めて取り調べた。それでひどい行いをした僧と諸々の僧尼を、一緒に罰した。そこで、百済の僧の觀勒が、「この佛法は、西国から漢に伝わって、三百年経って、それが伝わって百済国に伝わり、わずか百年も経っていない。しかし我が王と、日本の天皇が賢明で道理をわきまえた言葉を聞いて、佛像と経典を貢上して、まだ百年も満たない。それで、今、僧尼が、まだ戒律を習っていないので、簡単に酷い事をする。それで、諸々の僧尼が、恐れかしこまって、どうしてよいか解らない。お願いしますのは、そのひどい事をした者を除いた他の僧尼を、残らず赦免して罪に問わないでほしい。こうすると大きなよい行いの報いになります」と上表した。天皇は、それを聞き入れた。戊午の日に、「得道した人でも法を犯す。どうして世間一般の人に教えさとせるのか。それで、今から以降、僧正と僧都に任せて、それで僧尼を監督させなさい」と詔勅した。壬戌の日に、僧の觀勒を僧正とした。鞍部の徳積を僧都とした。そのひに、阿曇の連を法頭とした。秋九月の朔が甲戌の丙子の日に、寺と僧尼を取り調べて、詳しくその寺の建立した由来と、僧尼の仏門にはいった由縁、及び得度した年月日を記録した。この時、寺が四十六寺、僧が八百十六人、尼が五百六十九人、併せて千三百八十五人いた。冬十月の癸卯が朔の日に、大臣は、阿曇の連と阿倍の臣の摩侶の二人の家臣を派遣して、「葛城の縣は、元々は私の本居だ。それで、その縣に因んで姓名をつけた。それで、お願いするのは、常にその縣を、私の縣に封じてください」と奏上した。そこで、天皇は、「今、わたしは蘇我からの出だ。大臣は私の叔父だ。それで、大臣の言うことを、夜に言ったら夜明けを待たず、昼間に言ったら日暮れを待たず、どんな言葉も用いないことが無い。しかし今私の世で急に、この縣を失っては、後の君主が
『愚で鈍い婦人だ、天下に臨んで急にその縣を亡した』と言う。一人私だけが愚かと言われるだけでない。大臣も忠義に反すると言われる。これは後世に悪しき前例となる」と詔勅して、聞き入れなかった。三十三年の春正月の朔が壬申の戊寅の日に、高麗の王が、僧の惠潅を貢上した。それで僧正に任命した。】とあり、四月丙午朔も九月甲戌朔も十月癸卯朔も推古卅二年甲申年ではなく卅一年癸未年で卅三年春正月壬申朔も卅二年甲申年で、法興帝の死を622年ではなく621年に位置付けたため、624に挿入すべき記事を623に挿入しそれを推古32年と記述したのだろう。
すなわち、この挿入の矛盾は俀国の記事だったための矛盾で、実際は法興32年記事を推古32年に挿入したつもりが、法興帝の死を前年にしたため推古31年の干支に挿入したことを示している。
推古元年「立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子」と立太子が有ったということは、629年に俀国の政権交代が有って法興帝の弟の皇太子が622年即位してから7年後に薨去したが、法皇帝の弟だから当然その年齢も50代で長男が皇太子になり既に30代で孫も13歳に達していると考えられるが立太子したのだから、法皇帝のもう一人の弟か法興帝の長男が政権を奪取したことを示している。
そして、崇峻天皇五年「東漢直駒弑于天皇或本云東漢直駒東漢直磐井子也・・・蘇我娘嬪河上娘爲妻・・・大臣所殺」と磐井の子の東漢直駒が崇峻天皇を殺害したが、628年に磐井の子は有り得ず、すなわち、俀国の皇子の可能性が高く、地位が直と国造の地位で法興帝の太子聖徳太子だった俀国王の可能性がある。
仏教を保護し、王自ら僧となって国を統治したのだから、俀国僧はかなり政権に入り込んで、僧が傲慢になって事件を起こした、その背景があっての記事で、『上宮聖徳法王帝説』に「觀勒僧正惟古天皇即位十年壬戌來之」と602年に觀勒僧正と記述されているのは「壬戌以觀勒僧爲僧正」のことで、法興帝の10年600年のことなのだろうか。
そして、豊御食炊屋姫は欽明天皇二年「蘇我大臣稻目宿禰女曰堅鹽媛生・・・豐御食炊屋姫尊」と稲目の孫で、推古天皇三四年「大臣薨仍葬于桃原墓大臣則稻目宿禰之子也」と血統で符合しているが、内容は倭国が朝廷を掌握する前で、御井夫人が夫人になって32年が一番符合しそうだ。
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