『日本書紀』慶長版は
「二年春正月壬子朔旦五色大雲滿覆於天而闕於寅一色青霧周起於地辛酉大風二月辛巳朔庚子桃華始見乙巳雹傷草木華葉是月風雷氷雨行冬令國內巫覡等折取枝葉懸桂木綿伺候大臣渡橋之時爭陳神語入微之說其巫甚多不可悉聽三月辛亥朔癸亥災難波百濟客館堂與民家室乙亥霜傷草木華葉是月風雷雨氷行冬令夏四月庚辰朔丙戌大風而雨丁亥風起天寒巳亥西風而雹天寒人著緜袍三領庚子筑紫大宰馳驛奏曰百濟國主兒翹岐弟王子共調使來丁未自權宮移幸飛鳥板蓋新宮甲辰近江國言雹下其大徑一寸五月庚戌朔乙丑月有蝕之六月已卯朔辛卯
筑紫大宰馳譯奏曰髙麗遣使來朝群卿聞而謂之曰髙麗自己亥年不朝而今年朝也辛丑百濟進調舩泊于難波津秋七月巳酉朔辛亥遣数大夫於難波郡撿百濟國調與獻物於是大夫問調使曰所進國調欠少前例送大臣物不改去年所還之色送群卿物亦全不將來皆違前例其狀何也大使達率自斯副使恩率軍善倶荅諮曰即今可備自斯質達率武子之子也是月茨田池水大臭小(?虫)覆水其(?虫)口黒而身白八月戊申朔壬戌茨田池水變如藍汁死(?虫)覆水溝瀆之流亦復凝結厚三四寸大小魚臰如夏爛死由是不中喫焉 九月丁丑朔壬午葬息長足日廣額天皇于押坂陵丁亥吉備嶋皇祖母命薨癸巳詔土師娑婆連猪手視皇祖母命喪天皇自皇祖母命臥病及至發喪不避床側視養無倦乙未葬皇祖母命于檀弓岡是日大雨而雹丙午罷造皇祖母命墓役仍賜臣連伴造帛布各有差是月茨田池水漸變成白色亦無臰氣冬十月丁未朔已酉饗賜群臣伴造於朝堂庭而議授位之事遂詔國司如前所勅更無改換冝之厥任慎爾所治壬子蘇我大臣蝦夷縁病不朝私授紫冠於子入鹿擬大臣位復呼其弟曰物部大臣大臣之祖母物部弓削大連之妹故因母財取威於世戊午蘇我臣入鹿獨謀將廢上宮王等而立古人大兄爲天皇于時有童謠曰伊波能杯伱古佐屢渠梅野倶渠梅多伱母多礙底騰裒囉栖歌麻之之能烏膩是月茨田池水還清 」
【二年の春正月の朔が壬子の日の夜明けに、五つの色の大きな雲が、空を覆いつくして、6時間後に欠け出した。その中の一つの色の青い霧が地平に立った。辛酉の日に、大風がふいた。二月の朔が辛巳の庚子の日に、桃の花が咲き始めた。乙巳の日に、雹が降って草木の花や葉を傷めた。この月に、風が吹いて雷が鳴りみぞれが降った。冬の礼祭を行わせ国内の祈祷師達は葉つきの枝を折り取って、木綿をぶら下げて、大臣が橋を渡る時を見計らって、先を争って神の語葉を事細かに口ずさんだ。その巫がとても多くてすべてが聞こえなかった。三月の朔が辛亥の癸亥の日に、難波の百済の客の館堂と、住民の家屋が火事になった。乙亥の日に、霜が降って草木の花や葉が傷んだ。この月に、風が吹き雷が鳴ってみぞれた。冬の行事を命じた。夏四月の朔が庚辰の丙戌の日に、大風が吹き雨が降った。丁亥の日に、北風が吹いて寒かった。己亥の日に、西の風が吹いて雹が降って寒かった。みなドテラを三枚着た。庚子の日に、筑紫の大宰が、早馬で「百済国の主の子、翹岐と弟の王子が年貢の使者と一緒に遣って来た」と奏上した。
丁未の日に、副都の宮から飛鳥の板蓋の新宮に遷った。甲辰の日に、近江国が「雹が降った。その大きさの直径が一寸(?3cm)あった」と言った。五月の朔が庚戌の乙丑の日に、月食があった。六月の朔が己卯の辛卯の日に、筑紫の大宰が早馬で「高麗が、使者を派遣して来朝した」と奏上した。官僚が聞いて「高麗は、己亥の年から来朝していなかった。それなのになぜか今年、来朝した」と話し合った。辛丑の日に、百済の年貢を進上する船が、難波の津に停泊した。秋七月の朔が己酉の辛亥の日に、高官達を難波の郡に派遣して、百済国の年貢と献上された物とを見分した。そこで、高官は、年貢の使者に「進上した国の年貢が、例年より少ない。大臣が去年の返礼と同じように今年も準備しているぞ。官僚への贈り物も全然持ってこず、全てにおいて前例と違うがそれはどうしてだ」と問いかけた。大使の達率の自斯と副使の恩率の軍善は、二人とも「それでは直ぐに準備します」と答えた。自斯は、人質の達率の武子の子だ。この月に、茨田の池の水がとても臭くて、小い虫が水面を覆った。その虫は、口が黒くて体は白かった。八月の朔が戌申の壬戌の日に、茨田の池の水が、変色して藍の汁のように濁った。死んだ虫が水面を覆った。溝の流れが、また凍った。氷の厚さが三四寸位あった。小魚が腐ってとても臭い、夏に爛れて死んだようだった。そのため、食べれるものでは無かった。九月の朔が丁丑の壬午の日に、息長の足日廣額の天皇を押坂の陵に葬った。丁亥の日に、吉備嶋の皇祖母の命が薨じた。癸巳の日に、土師の娑婆の連の猪手に詔勅して、皇祖母の命の葬儀のとりまとめを担当させた。天皇は、皇祖母の命が病床に就いてから、葬儀をするまで、床の側を離れず、臨終に立ち会った。乙未の日に、皇祖母の命を檀弓の岡に葬った。この日に、大雨が降って雹も降った。丙午の日に、皇祖母の命の墓を造るのを止めた。それで、臣・連・伴造にそれぞれ差をつけて絹の布を与えた。この月に、茨田の池の水がだんだん白色に変わって臭いも無くなった。冬十月の朔が丁未の己酉の日に、臣下と伴造を朝堂の庭で饗応した。それで位を授ける相談をした。それで国司に「以前に詔勅したとおりで、新たに変えない。任せたことを額を地につけて拝むぐらいに謹め」と詔勅した。壬子の日に、蘇我の大臣の蝦夷が、病気で朝廷に出仕出来なかったので、紫冠を子の入鹿に私授して、大臣の代理にした。またその弟を、物部の大臣と呼んだ。大臣の祖母は、物部の弓削の大連の妹で、それで、母の財力で、勢力を世に示した。戊午の日に、蘇我の臣の入鹿は、自分で考えて、上宮の王達を廃嫡して、古人の大兄を天皇にしようとした。その時、風刺歌があって(略)。この月に、茨田の池の水が元通り澄んだ。】とあり、五月庚戌朔と六月己卯朔と七月己酉朔は617年ことで、ほかは標準陰暦と合致する。
高句麗が639年に朝貢があってから、643年まで朝貢が無かったと述べているが、『三国史記』に638年建武二十一年「冬十月侵新羅北邊七重城新羅將軍閼川逆之戰於七重城外我兵敗衂」の翌年の639年、643年の前年の642年建武王在位二十五年「蓋蘇文弑之立臧繼位新羅謀伐百濟」と新羅が動いた翌年に朝貢していていて、その前の629年建武十二年「秋八月新羅將軍金信來侵東邊破娘臂城」も、630年舒明天皇三年「高麗大使宴子拔小使若徳百濟大使恩率素子小使徳率武徳共朝貢」と翌年に朝貢している。
その記事の日干支が617年推古25年の日干支なのだから629年即位の推古天皇25年の653年白雉2年にあたり、653年の高麗訪日記事を推古25年の617年の日干支で資料を作り、その記事を643年の高麗訪日記事にしたということだ。
元年の「天皇遷移於小墾田宮」と異説に「東宮南庭之權宮」として二年に「飛鳥板蓋新宮」と記述しているが、この記事は斉明元年の「皇祖母尊即天皇位於飛鳥板盖宮」の記事と同じ遷都の記事で「權」は「秤」の意味で前宮と同等の都で、副都と訳した。
わたしは「闕於寅」6時間後と訳したが、春の夜明けが6時で寅の刻は5時頃で前に戻ってしまうので6時間後と考え、以前も「秋七月・・・卯始朝之巳後退」と秋に卯の刻は5から7時でこれは仕事を夜明けに始めて巳の刻だと9時から11時でこれも奇妙で、【隋書』に「天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務」と夜明け前まで天子が働き、夜明けから弟に任せていて、仕事は昼夜なくあると言っていて、昼前に仕事を止めることは考えられない。
そして、17条憲法の8条に「八曰群卿百寮早朝晏退公事靡盬終日難盡是以遲朝不逮于急早退必事不盡」と早朝から遅くまで働きなさいと記述していて、11時では早すぎるのだから、10から12時間後にすなわち、朝6時から夜6時まで働きなさいと述べている。
0 件のコメント:
コメントを投稿