2020年9月18日金曜日

最終兵器の目 皇極天皇2

 『日本書紀』慶長版は

辛酉新羅遣賀騰極使與吊喪使庚午新羅使人罷歸是月霖雨夏四月丙戌朔癸巳太使翹岐將其從者拜朝乙未蘇我大臣畝傍家喚百濟翹岐等親對語話仍賜良馬一疋鐵二十鋌唯不喚塞上是月霖雨五月乙卯朔已未於河內國依網屯倉前召翹岐等令觀射獵庚午百濟國使舩與吉士舩倶泊于難波津壬申百濟使人進調吉士服命乙亥翹岐從者一人死去丙申翹岐兒死去是時翹岐與妻畏忌兒死果不臨喪凢百濟新羅風俗有死亡者雖父母兄弟夫婦姉妹永不自看以此而觀無慈之甚豈別禽獸丁丑熟稻見戊寅翹岐將其妻子移於百濟大井家乃遣人葬兒於石川六月乙酉朔庚子微雨是月大旱秋七月甲寅朔壬戌客星入月乙亥饗百濟使人大佐平智積等於朝乃命健兒相撲於翹岐前智積等宴畢而退拜翹岐門丙子蘇我臣人鹿豎者獲白雀子是日同時有人以白雀納籠而送蘇我大臣戊寅群臣相謂之曰隨村々祝部所教或殺牛馬祭諸社神或頻移市或禱河伯既無所效蘇我大臣報曰可於寺寺轉讀大乗經典悔過如佛所說敬而祈雨庚辰於大寺南庭嚴佛菩薩像與四天王像屈請衆僧讀大乗經等于時蘇我大臣手執香鑪燒香發願辛巳微雨壬午不能祈雨故停讀經八月甲申朔天皇幸南淵河上跪拜四方仰天而祈即雷大雨遂雨五日溥潤天下於是天下百姓倶稱万歲曰至德天皇已丑百濟使參官等罷歸仍賜大舶與同舩三艘是日夜半雷鳴於西南角而風雨參官等所乗舩舶觸岸而破丙申以小德授百濟質達率長福中客以下授位一級賜物各有差戊辰以舩賜百濟參官等發遣己亥髙麗使人罷歸已酉百濟新羅使人罷歸

【辛酉の日に、新羅は、登り極めた新天皇の即位の祝賀と弔使を引き連れて派遣した。庚午の日に、新羅の使者が帰った。この月に、雨が降り続いた。夏四月の朔が丙戌の癸巳の日に、大使の翹岐が、従者を連れて朝廷に挨拶した。乙未の日に、蘇我の大臣が、畝傍の家で、百済の翹岐達を呼び出した。自ら対面して会談した。それで良馬一匹と鐵二十鋌を与えた。ただし塞上だけは呼ばなかった。この月は、雨が降り続いた。五月の朔が乙卯の己未の日に、河内の国の依網の屯倉の前で、翹岐達を招いて、狩猟を見せた。庚午の日に、百済国の年貢の使者の船と吉士の船と、一緒に難波津に停泊した。壬申の日に、百済の使者が年貢を貢上した。吉士が服命した。乙亥の日に、翹岐の従者が一人死去した。丙子の日に、翹岐の子が死去した。この時に、翹岐と妻とが、子が死んだことを殺されたのではと恐れて、葬儀に出なかった。おおかた百済と新羅の風俗では、死者が有るときは、父母兄弟夫婦姉妹といっても、絶対に自分の事を考えない。自分の事を考えると、思いやりが全く無くてけだものと変わらないということだ。丁丑の日に、もう枯れた稲を見た。戊寅の日に、翹岐がその妻子を連れて、百済の大井の家に移った。それで人を派遣して子を石川に葬った。六月の朔が乙酉の庚子の日に、小雨がやっと降った。この月は、とても日照りが続いた。秋七月の朔が甲寅の壬戌の日に、急に現れた星が月にぶつかった。乙亥の日に、百済の使者の大佐平の智積達を朝庭で饗応した。それで元気な若者に命令して、翹岐の前で相撲を取らせた。智積達は、宴会が終わったので退席して、翹岐門で帰りの挨拶した。丙子の日に、蘇我の臣の入鹿の小僧が、白い雀の子を捕った。この日の同じ時に、人がいて、白い雀を篭に入れて、蘇我の大臣に送った。戊寅の日に、役人が「村々の祝部の言うがままに、あるいは牛馬を殺して、諸々の社の神を祭る。あるいは何度も市を移す。あるいは河の守り神に祈祷しても全く効き目が無い」と話し合った。蘇我の大臣が「寺々に大乗経典を読み伝えなさい。悔い改めることは、佛の説いたように、敬って雨ごいをしよう」と応じた。庚辰の日に、大寺の南の庭で、菩薩の像と四天王の像とを厳かに、多くの僧を頼みこんで呼び出し、大雲經などを読ませた。その時に、蘇我の大臣は、手に香炉を持って、香を焚いて願立てをした。辛巳の日に、小雨が降った。壬午の日に、雨ごいしたが叶わず、それで読経を止めた。八月の甲申が朔の日に、天皇は、南淵の河上に行幸して、跪いて四方を拜んだ。天を見上げて雨ごいをした。すると雷が鳴って大雨が降った。それで雨が五日降り続き少しばかり天下が潤った。そこで、天下の百姓は、みんなで万歳と言って「この上なく立派な徳を持った天皇だ」と言った。己丑の日に、百済の使者の參官達が帰った。それで大きい舶と同じ大きさの船を三艘を与えた。この日の夜半に、雷が西南ので鳴って、風が吹き雨が降った。參官達が乗る船舶が、岸にぶつかって壊れた。丙申の日に、小徳を百済の人質の達率の長福に授けた。中客より下位に、一級の位を授けた。物をそれぞれ差をつけて与えた。戊戌の日に、船を百済の參官達に与えて、出港させた。己亥の日に、高麗の使者が帰った。己酉の日に、百済と新羅の使者が帰った。】とあり、標準陰暦と合致する。

翹岐は641年に義慈王が即位した時に島流しにあって642年に日本に渡ってきた皇子で島流しに有ったのは舒明天皇の末の舒明13年ということになるが、641年は629年即位の推古天皇13年に当たり、しかも、翹岐が実際に来日するのは643年皇極天皇二年「百済國主兒翹岐弟王子共調使來」と兄弟で来日しているが、時期が異なり、直接日本の朝廷に身を寄せなかったと思われる。

しかし、『三国史記』に653年義慈王十三年「春大旱民饑秋八月王與倭國通好」と白雉2年に朝鮮でも干ばつが発生し、使者が8月に来日してよく符合し、翌年の、舒明天皇で説明した舒明天皇三年「百濟王義慈入王子豐章爲質」の記事を654年と検証し、654年に皇太子も人質となり、すなわち、百済の訪日記事は653年のことで、653年に王となった人物がいたことを示している。

以前にも触れたが、推古天皇十四年「是歳皇太子亦講法華經於岡本宮」の時、岡本宮はまだ無いので、白雉三年四月「請沙門惠隱於内裏使講無量壽經」が同じことを述べたとがこの蘇我大臣の法会と同じことを意味し、653年の干ばつに対する大法会だったようだ。


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