2020年9月4日金曜日

最終兵器の目 推古天皇16

 『日本書紀』慶長版は

三十四年春正月桃李華之三月寒以霜降夏五月戊子朔丁未大臣薨仍葬于桃原墓大臣則稻目宿祢之子也性有武略亦有辨才以恭敬三寶家於飛鳥河之傍乃庭中開小池仍興小嶋於池中故時人曰嶋大臣六月雪也是歲自三月至七月霖雨天下大飢之老者噉草根而死于道垂幼者含乳以母子共死又強盜竊盜並大起之不可止三十五年春二月陸奧國有狢化人以歌之夏五月有蠅聚集其凝累十丈之浮虛以越信濃坂鳴音如雷則東至上野國而自散三十六年春二月戊寅朔甲辰天皇臥病三月丁未朔戊申日有蝕盡之壬子天皇病甚之不可諱則召田村皇子謂之曰昇天位而經綸鴻基馭萬機以亭育黎元本非輙言恒之所重故汝愼以察之不可輙言即日召山背大兄教之曰汝肝稚之若雖心望而勿諠言必待群言以冝從癸丑天皇崩之即殯於南庭夏四月壬午朔辛卯雹零大如桃子壬辰雹零大如李子自春至夏旱之秋九月巳已朔戊子始起天皇哀禮是時群臣各誄於殯宮先是天皇遺詔於群臣曰比年五穀不登百姓大飢其爲朕興陵以勿厚葬便冝葬于竹田皇子之陵壬辰葬竹田皇子之陵

【三十四年の春正月に、桃とすももの、花が咲いた。三月に、寒くて霜が降った。夏五月の朔が戊子の丁未の日に、大臣が薨じた。それで桃原の墓に葬った。大臣は稻目の宿禰の子だ。性格は、戦のかけひきが上手く、また弁舌の才能も有った。それで三宝を恭んで敬って、飛鳥の河の傍に邸宅を建てた。それで庭の中に小な池を開いた。それで小さな嶋を池の中に作った。それで、当時の人は、嶋の大臣と言った。六月に、雪が降った。この歳は、三月から七月まで、幾日も雨が降り続いた。国中が、とても飢えた。老人は草の根を食べ進んで、道の行き止まりで死んだ。

幼児は乳房を含んで、母子共に死んだ。また強盜や窃盗が一遍に国中で起こって、無い日が無かった。三十五年の春二月に、陸奧の国にアナグマがいて人が歌うように吠えた。夏五月に、蝿が大発生して、それがかたまり重なって十丈も有った。空中を飛んで信濃の坂を越えた。飛ぶ羽音は雷の様だった。それで東の方向の上野の国に飛んで行って自然に散り散りになった。三十六年の春二月の朔が戊寅の甲辰の日に、天皇が、病に臥せた。三月の朔が丁未の戊申の日に日食が有った。壬子の日に、天皇の、痛みが甚しくて、何もできずにはばかられた。それで田村の皇子を呼んで「皇位に昇って大きな事業の基を治めととのえ、天下の政治を治めて庶民をそだて養うことは、はじめから簡単に言ってはいけない。いつも変わらず重要なことだ。だから、お前は謹んでよく見ていなさい。軽々しく発言してはならない」と言った。その日に、山背の大兄を呼んで召して戒めて「お前は度胸が足りないい。もし心で願っても難しいので 騒ぎ立ててはならない。必ず役人の言葉をよく聞いて従いなさい」と言った。癸丑の日に、天皇が崩じた。それで南の庭に置いて別れを惜しんだ。夏四月の朔が壬午の辛卯の日に雹が降った。大きさは李の実の様だった。壬辰の日に、雹が降った。大きさは李の実の様だった。春から夏まで、日照り続きだった。秋九月の朔が己巳の戊子の日に、はじめて天皇の葬儀を催した。この時に、役人、各々が殯宮で哀悼の意を表した。これより前に、天皇は、役人に「この頃は、五穀が育たず百姓がとても飢えている。それで私の為に陵を作って手厚く葬ってはいけない。それで竹田の皇子の陵に葬りなさい」と遺言を残した。壬辰の日に、竹田の皇子の陵に葬った。】とあり、日干支が全く合わず、二月戊寅朔と三月丁未朔は597年と654年、四月壬午朔は653年と596年、九月己巳朔は598年と665年が対応し、596年から598年が一番合致しそうだ。

とくに、天皇の崩じた三月丁未朔の597年は推古天皇5年で推古天皇即位前紀に「卅四歳渟中倉太珠敷天皇崩卅九歳當于泊瀬部天皇五年」すなわち、用明2年と崇峻天皇の3年で5年と考えると、崇峻天皇4年の4月に葬った葬譯語田天皇が初代馬子の薨去の可能性を述べたが、

その時に初代馬子の姉の豊御食炊屋姫が2代目馬子が若いため後継を決めた説話なのかもしれない。

実際の舒明天皇の即位は652年で、後継争いは推古23年と考えられ、推古天皇二四年に「春正月桃李實之」と異常気象が記述されるが、推古天皇二五年は「是歳五穀登之」と豊作で、『日本書紀』の白雉元年は実際は652年で白雉元年には盛大な即位式を行っている。

『古事記』には「妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」と田村王が崗本宮天皇を生むが、『古事記』を完成させた人物の時の崗本宮天皇は糠代比賣の子だったと述べていて、それに対して『日本書紀』は敏達紀に舒明天皇との関係を記さず、敏達天皇四年に「糠手姫皇女」と有るだけで天智天皇達が注で「更名田村皇女」と『古事記』と同じ手段で読者を間違えさせている。

『古事記』には彦人が田村王と漢王の妹大俣王と庶妹玄王を娶ったと記述しているが、『日本書紀』は「小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」とおそらく庶妹の玄王がその姉の小墾田皇女の娘で田村王と大俣王にはなにも記述が無く、大派皇子で姫ではなく、『古事記』では日子人は太子と記述されるが厩戸豊聡耳は太子と呼ばれず、推古朝の次の代の舒明天皇の時に太子となった。

そして、ここの推古天皇の言っていることは、『古事記』の血縁関係で、どちらも稲目の子の彦人の皇子の「娶庶妹玄王生御子山代王」と「庶妹田村王生御子坐崗本宮治天下之天皇」でおそらく、この推古天皇は2代目で小墾田皇女が推古天皇で山代王を押し、597年の推古5年は物部贄古の推古天皇で皇太子が弟の守屋、後に贄古の妻となった御井夫人が馬子と婚姻して、馬子が太子となったと思われる。

ちなみに、『古事記』の継体天皇は平群氏との戦いが2代ズレて、『古事記』の清寧末顕宗前記の内容が『日本書紀』の武烈天皇に記述されているので、『日本書紀』の仁賢天皇の2代前なので推古天皇は『古事記』「豊御食炊屋比賣命坐小治田宮治天下参拾漆歳戊子年三月十五日癸丑日崩」と2代ズレ、それで『古事記』の用明天皇は『日本書紀』の推古天皇で、用明天皇は628年に終っている。

0 件のコメント:

コメントを投稿