『日本書紀』慶長版は
「乙巳志紀上郡言有人於三輪山見猿晝睡竊執其臂不害其身猿猶合眼歌曰武舸都烏爾陀底屢制羅我伱古祢舉曾倭我底烏騰羅毎拖我佐基泥基左泥曾母野倭我底騰羅湏謀野其人驚恠猿歌放捨而去此是經歴數年上宮王等爲蘇我鞍作圍於膽駒山之地也戊申於劔池蓮中有一莖二者豊浦大臣妄推曰是蘇我臣將榮之瑞也即以金墨書而獻大法興寺丈六佛是月國內巫覡等折取枝葉懸掛木緜伺大臣度橋之時爭陳神語入微之說其巫甚多不可具聽老人等曰移風之兆也于時有謠歌三首其一曰波波魯魯儞渠騰曾枳舉喩屢之麻能野父播羅其二曰烏智可拖能阿婆努能枳枳始騰余謀作儒倭例播祢始柯騰比騰曾騰余謀湏其三曰烏麻野始伱倭例烏比岐例底制始比騰能於謀提母始羅孺伊弊母始羅孺母也秋七月東國不盡河邊人大生部多勸祭虫於村里之人曰此者常世神也祭此神者到富與壽巫覡等遂詐託於神語曰祭常世神者貧人到富老人還少由是加勸捨民家財寶陳酒陳菜六畜於路側而使呼曰新富入來都鄙之人取常世(?虫)置於清座歌儛求福棄捨珍財都無所益損費極甚於是葛野秦造河勝惡民所惑打大生部多其巫覡等恐休勸祭時人便作歌曰禹都麻佐波柯微騰母柯微騰枳舉曳倶屢騰舉預能柯微乎宇智岐多麻湏母此(?虫)者常生橘樹或生於(?曼)(?椒)其長四寸餘其大如頭指許其色緑而有黒點其貌全似養蠶冬十一月蘇我大臣蝦夷兒入鹿臣雙起家於甘檮岡稱大臣家曰宮門入鹿家曰谷宮門稱男女曰王子家外作城柵門傍作兵庫毎門置盛水舟一木鉤數十以備火災恒使力人持兵守家大臣使長直於大丹穗山造桙削寺更起家於畝傍山東穿池爲城起庫儲箭恒將五十兵士繞身出入名健人曰東方儐從者氏氏人等入侍其門名曰祖子孺者漢直等全侍二門」
【乙巳の日に、志紀の上の郡が「人がいて、三輪の山に猿が昼寝しているのを見て、そっと肘をつかんで、体を傷つけなかった。猿が目を閉じたまま歌った(略)その人は、猿の歌に驚き怪しんで、放り投げて逃げ帰った。これは、数年経って、上宮の王達が、蘇我の鞍作の為に、膽駒山で包囲される兆しだ。」と言った。戊申の日に、剱池で、中の一つの茎に二つの花をもつ蓮があった。豊浦の大臣は、慎みも無く「これは、蘇我臣が栄える吉祥だ」と言い張った。それで金象嵌で書いて、大法興寺の丈六の仏像を献上した。この月に、国中の祈祷師達が、葉つきの枝を折り取って、木綿をぶら下げて、大臣が橋を渡る時を見計らって、先を争って神の語葉を事細かに口ずさんだ。その巫がとても多くてすべてが聞こえなかった。老人達が「世の中が変わる兆しだ」と言った。その時に、風刺の歌を三首を歌った。第一に、(略)第二に、(略)第三に、(略)秋七月に、東国の不尽の河の辺の人で大生部の多が、虫を祀るよう村人に勧めて、「これは常世の神だ。この神を祀る者は、富み幸せになる」と言った。祈祷師達は、とうとう神の語葉だと、「常世の神を祭れば、貧しい人は富み、老人は若返る」と嘘を言った。それで、さらに財宝を捨てるよう勧めて、酒を並べ、野菜や六種の肉を道の辺に並べて、「新しい富が向こうからやってきた」と叫んだ。都も田舎もみな常世の虫を取って、浄めた所に置いて、歌い踊って、幸福を求めて財宝を捨て、何の益も無く損害は甚大だった。そこで、葛野の秦の造の河勝が、人を惑わすことは悪い事と考え大生部の多を討った。祈祷師達は、恐れて勧めたり祀ったりすることを一時止めた。当時の人は、それで歌を作った(略)この虫は、いつも橘の樹にいる。または犬山椒にいる。その長さは四寸余で、その太さは親指位でその色は緑で黒い斑点がある。その見た目は蚕に似ている。冬十一月に、蘇我の大臣の蝦夷と子の入鹿臣が、邸宅を甘梼の岡に並べて建てた。大臣の家を、宮門(ミカド)と呼んだ。入鹿の家を、谷の宮門と呼んだ。男女の子達を王子と言った。屋敷の外に柵を巡らし、門の隣に武器庫を造った。門ごとに、水を盛った舟を一つ、木鉤、数十を置いて、火災に備えた。いつも力自慢に武器を持たせて屋敷を守った。大臣は、長の直に、大丹穗の山へ、桙削の寺を造らせた。また屋敷を畝傍の山の東に起てた。濠を掘って城とした。兵器庫を建てて矢を積み上げた。いつも五十人の兵士を率いて、護衛させて城を出入りした。この力自慢を東方の儐從者と名付けた。その氏族の人達が兵舎で仕え、祖子孺者と名付けた。漢の直達は2つの門を守った。】とある。
常生橘樹に卵を産む虫が常世の神と呼んでいるが、垂仁天皇九十年「田道間守遣常世國令求非時香菓」と橘を常世の国から持ってきていて、この橘と一緒に日本に入ってきた虫のようで、富士山周辺に虫を神格化した風習が古くから残っていたのだろう。
秦造河勝は推古天皇十一年に「皇太子謂諸大夫曰我有尊佛像誰得是像以恭拜時秦造河勝進曰臣拜之便受佛像」、推古天皇十八年に「命秦造河勝土部連菟爲新羅導者以間人連臨蓋阿閇臣大篭爲任那導者」と記述されるが、それぞれ639年、646年のことと解り、大化二年「遣小徳高向博士黒麻呂於新羅而使貢質遂罷任那之調」と新羅朝貢記事が記述されている。
そして、644年『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年」646年に崩じる池邊天皇の時に濠や柵で囲った2つ並んだ宮殿を造りその門を漢直達に守らせ、漢直は『古事記』の「漢王之妹大俣王生御子知奴王」と茅渟王の義父のことで、古人皇子がその長男若しくは孫と思われ、中大兄もその家系なのだから、乙巳の変の時の門番は漢王の皇太子の中大兄の部下である。
そして、646年に茅渟王が崩じて、『藤氏家伝』に「俄而崗本天皇崩皇后即位」と皇后が即位したが、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』に「小治田大宮治天下大王天皇」と大王のままで、私は『古事記』「小治田王」『日本書紀』「其三曰小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」と古事記には彦人の妃と記述せず、『日本書紀』に記述する小墾田皇女が天皇になったと考えていて、652年蝦夷に斑鳩の皇女の小墾田皇女が殺害されて皇位を奪われたのではないだろうか。
『古事記』は「日子人太子娶鹿庶妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」、「又娶漢王之妹大俣王生御子知奴王次妹桑田王又娶庶妹玄王生御子山代王次笠縫王」で崗本宮治天下之天皇を書きながら妻の皇極天皇を記述せず、『日本書紀』も「田眼皇女是嫁於息長足日廣額天皇」と皇極天皇では無い。
すなわち、消された田眼皇女の夫の舒明天皇が田村王の子で、この舒明天皇を天智天皇が消し去り、漢王の家系(俀国)では皇室の家系ではないが、舒明天皇はもともと俀国王だったとし、小墾田皇女を自分の家系(倭国)に挿入して、正統性を主張したことを意味する。
そして、この、消し去った舒明天皇が蘇我大臣すなわち帝の蝦夷天皇・摂政入鹿で、天智天皇から見ると、勝手に宮門(帝)と呼び、子達を勝手に王子と呼んだと見做しただけで、実際は当然な態度で、天智天皇の母系が馬子で馬子の孫にあたるが、漢直の摂政にすぎないのである。
天皇となって国史を記述する時、すでに公布された部分は変更できないが、続きの部分は、国史を記述する天皇の先代が天皇だったと想定して記述しても、前王朝も雄略天皇から推古天皇までもそのように記述してきたのだから、同じように国史を記述したのだ。
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