今回も原文が長いので検証を先に記述する。
ここの登場人物の倉山田麻呂臣は孝徳天皇前紀「蘇我倉山田石川麻呂臣爲右大臣以大錦冠授中臣鎌子連爲内臣」と鎌子と共に大臣に昇進し、大化五年「皇太子妃蘇我造媛聞父大臣爲鹽所斬」と天武天皇が『日本書紀』に記述し、蘇我倭国の終焉を652年設定したが、668年の天智即位で邪魔な名目上の皇太子を排除したと考えられ、入鹿が皇位を継ごうと謀ったのは入鹿ではなく天氏の子と中大兄を呼んで、中大兄が皇太子ならこの言葉は不要だ。
そして、鎌子の子不比等は養老四年八月「右大臣正二位藤原朝臣不比等薨」と720年に62歳で死んでいて、鎌子は『藤氏家伝』に「薨于淡海之第時年五十有六」と56歳で『日本書紀』では天智天皇八年「藤原内大臣薨」と669年に死に、この時第2子の不比等は11歳で年齢から考えれば奇妙で、鎌子の死亡が692年なら不比等が34歳で鎌子が22歳の時に次男なら問題が無い。
しかも、692年死亡なら持統四年「高市皇子觀藤原宮地」と藤原宮を建設中でそれを記念して藤原賜姓なら良く理解でき、『藤氏家伝』の岡本・後岡本・天豐財重日足姫天皇・天萬豐日天皇の記述や皇祖母の推移からも皇太子の年齢からも、遺物からも、『日本書紀』の記述の矛盾からも、そして、一番の矛盾が皇極天皇から天智天皇まで天武天皇が書いたのに乙巳の変を元明天皇たちが記述したということで、天智天皇にも天武天皇にも不都合な内容だったから書けなかったことを示し、元明天皇は天智天皇のクーデタを書いたほうが有利だったことを示している。
乙巳の変については実際に有ったところで背景を述べるが、実際の事件では、入鹿が帯刀して天皇の側に座るのだから入鹿は天皇と近く、しかも、劔を解いているのだから、護衛でもないことを示し、乙巳の変が起こっても元号が変わっていないのだから、改元を行う人物がここでの天皇、当然、白鳳年号を改元した人物で、その子孫が元明天皇ということだ。
『粟原寺鑪盤銘』に「浄御原宮天下天皇時日並御宇東宮故造伽檻之爾故比賣朝臣額田」と文武天皇の父日並の妻額田が元明天皇で、天武天皇二年「天皇初娶鏡王女額田姫王」と母が鏡王で、天武天皇十二年「鏡姫王薨」と683年に鏡姫王が死んで翌年朱雀に改元され、673年に10代の娘を嫁がせているのだから650年代後半に額田姫の父と婚姻している。
この頃には鎌子に長男が居て、『興福寺縁起草』(『興福寺流記』)の「冬十月内大臣二竪入夢七尺不安嫡室鏡王女請曰別造伽藍」と嫡室は合致せず、この大臣は蝦夷の可能性が高く、額田姫推古に馬子とのコンビが示すように、629年から664年まで続く倭国推古朝の統治形態と思える。
そして、入鹿の宮を守っていた漢の直の君主の長男が中の大兄と言い、古人皇子が義兄でも君主の長男ではないし跡取りでもない、すなわち、君主は母親で、倭国も俀国も女系だと解り、漢直は縣主や国造で中大兄の母は漢王で漢直・俀国の君主と考えられる。
『日本書紀』慶長版は
「四年春正月或於阜嶺或於河邊或於宮寺之間遙見有物而聽(?猨)吟或一十許或二十許就而視之物便不見尚聞鳴嘯之響不能獲覩其身時人曰此是伊勢大神之使也夏四月戊戌朔髙麗學問僧等言同學鞍作得志以虎爲友學取其術或使枯山變爲青山或使黄地變爲白水種々竒術不可殫究(?又)(?虎)授其針曰愼矣愼矣勿令人知以此治之病無不愈果如所言治無不差得志恒以其針隱置柱中於後(?虎)折其柱取針走去髙麗國知得志欲歸之意與毒殺之六月丁酉朔甲辰中大兄密謂倉山田麻呂臣曰三韓進調之日必將使卿讀唱其表遂陳欲斬入鹿之謀麻呂臣奉許焉戊申天皇御大極殿古人大兄侍焉中臣鎌子連知蘇我入鹿臣爲人多疑晝夜持劔而教俳優方便令解入鹿臣咲而解剱入侍于座倉山田麻呂臣進而讀唱三韓表文於是中大兄戒衞門府一時倶鏁十二通門勿使往來召聚衞門府於一所將給祿時大中兄即自執長槍隱於殿側中臣鎌子連等侍(持)弓矢而爲助衞使海犬養連勝麻呂投箱中兩劔於佐伯連子麻呂與葛城稚犬養連網田曰努力努力急湏應斬子麻呂等以水送飯恐而反吐中臣鎌子連嘖而使勵倉山田麻呂臣恐唱表文將盡而子麻呂等不來流汗沃身亂聲動手鞍作臣恠而問曰何故掉戰山田麻呂對曰恐近天皇不覺流汗中大兄見子麻呂等畏入鹿威便旋不進曰吐嗟即共子麻呂等出其不意以劔傷割入鹿頭肩入鹿驚起子麻呂運手揮釼傷其一脚入鹿轉就御座叩頭曰當居嗣位天之子也臣不知罪乞垂審察天皇大驚詔中大兄曰不知所作有何事耶中大兄伏地奏曰鞍作盡滅天宗將傾日位豈以天孫代鞍作乎天皇即起入於殿中佐伯連子麻呂稚犬養連網田斬入鹿臣是日雨下潦水溢庭以席障子覆鞍作屍古人大兄見走入私宮謂於人曰韓人殺鞍作臣吾心痛矣即入臥內杜門不出中大兄即入法興寺爲城而備凢諸皇子諸王諸卿大夫臣連伴造國造悉皆隨侍使人賜鞍作臣屍於大臣蝦夷於是漢直等捴聚眷属懐甲持兵助大臣設軍陣中大兄使將軍巨勢德陀臣以天地開闢君臣始有說於賊黨令知所起於是髙向臣國押謂漢直等曰吾等由君大郎應當被戮大臣亦於今日明日立俟其誅決矣然則爲誰空戰盡被刑乎言畢解劔投弓捨此而去賊徒亦隨散走己酉蘇我臣蝦夷等臨誅悉燒天皇記國記珍寶舩史惠尺即疾取所焼國記而奉中大兄是日蘇我臣蝦(?虫夷)及鞍作屍許葬於墓復許哭泣於是或人說第一謠歌曰其歌所謂波魯波魯伱渠騰曾枳舉喩屢之麻能野父播羅此即宮殿接起於嶋大臣家而中大兄與中臣鎌子連密圖大義謀戮入鹿之兆也說第二謠歌曰其歌所謂烏智可拖能阿娑努能枳枳始騰余謀佐儒倭例播祢始柯騰比騰曾騰余謀湏此即上宮王等性順都無有罪而爲入鹿見害雖不自報天使人誅之兆也說第三謠歌曰其歌所謂烏磨野始伱倭例烏比岐以例底制始比騰能於謀提母始羅孺伊弊母始羅孺母也此即入鹿臣忽於宮中爲佐伯連子麻呂稚犬養連網田所誅之兆也庚戌讓位於輕皇子立中大兄爲皇太子」
【四年の春正月に、あるいは小高い嶺に、あるいは川辺に、あるいは宮寺の間に、遠くから見つめるものがいた。それで猿が歌うのを聞いた。あるいは十ぐらい、あるいは二十くらい。行ってみると、何も居なくて、それでも啼き唸る声が響いた。その正体を見ることが出来なかった。当時の人は「これは、伊勢の大神の使いだ」と言った。夏四月の戊戌が朔の日に、高麗の学問僧達が「一緒に学んでいる鞍作の得志は、虎を友にして、その術を学び取った。あるいは枯た山を青々とした山に変え、あるいは黄いろい荒れた土地にはきれいな水を張った。種々のおかしな術などで、極めたわけではない。また、虎が、その針を授けて『絶対に人に教えてはならないが、これで治療すれば、病気は必ず治る』と言った。それで言った通りで、治療して治らないことが無かった。得志は、いつもその針を柱の中に隱していた。のちに、虎が、その柱を折って、針を取って逃げ去った。高麗国は、得志が帰りたいと思っていることを知って、毒を盛って殺した」と言った。六月の朔が丁酉の甲辰の日に、中の大兄は、ひそかに倉の山田の麻呂の臣に「三韓の年貢を進上する日に、必ずあなたがその表を読みあげなさい」と言った。それで入鹿を斬る謀略を述べた。麻呂の臣は聞き入れた。戊申の日に、天皇は大極殿に居た。古人の大兄が傍に使えた。中臣の鎌子の連は、蘇我の入鹿の臣が、とても疑い深くて、昼夜いつも剱を持っていることを知り、巧みに騙す方法を教えて、都合の良い方法で剱を解かせた。入鹿の臣は、咲って剱を解いた。入って席に着いた。倉の山田の麻呂の臣は、進み出て三韓の上表文を読み上げた。そこで、中の大兄は、朝廷の護衛官へ同時に12の通用門を閉ざして往来できないように厳命した。朝廷の護衛官を一か所に呼び集めて、ちょうど禄を与えようとした。その時に、中の大兄は、自分で長い槍を持って御殿の側に隠れた。中臣の鎌子の連達は、弓矢を持って大兄を助け守った。海の犬養の連の勝麻呂に、箱の中の二つの剱を佐伯の連の子麻呂と葛城の稚犬養の連の網田に授けさせて「絶対に、急いで伐らなければいけない」と言った。子麻呂達は、水で飯を流し込み怖くて嘔吐した。中臣の鎌子の連は、声を上げて励ました。倉の山田の麻呂の臣は、上表文を読み終わろうとしたが、子麻呂達が来ないことを恐れて、流れる汗が体を濡らして、声はみだれ、手が震えた。鞍作の臣は、怪んで「何を恐れて震えているのだ」と問いかけた。山田の麻呂は、「天皇に近づいたので恐れて、無意識に汗が流れた」と答えた。中の大兄は、子麻呂達が、入鹿の威厳に恐れて、しりごみするのを見て、「それ行け」と言った。それで子麻呂達は一緒、向かって行って不意打ちに、剱で入鹿の頭と肩を切り裂いた。入鹿は驚いて立ち上がった。子麻呂は、手で剱を拭って剱を揮って一方の足を切りつけた。入鹿は、天皇の席に転がるように近づいて、頭を叩きつけるように「天皇の跡を取ろうとするのは、天の子だ。私に罪は無い。良く調べてください」と言った。天皇は大変驚いて、中の大兄に「どういうことだ、なにがあったのか」と詔勅した。中の大兄は、土下座して「鞍作が、天の宗を滅ぼしつくして、日の位を傾けようとした。天孫が鞍作と取って代わります」と奏上した。天皇は、それで立ち上がって御殿の中に入った。佐伯の連の子麻呂と稚犬養の連の網田は、入鹿の臣を斬った。この日は、雨が降って庭いっぱいに水が溜まって溢れた。席の障子で、鞍作の屍を覆い隠した。古人の大兄は、それ見て自分の宮に走って逃げ入って、「韓人が、鞍作の臣を殺した。なんと痛ましい」と人に言った。それで寝所に入って、門を閉ざして外に出なかった。中の大兄は、それで法興寺に入って、城にして備えた。すべての諸皇子と諸王と諸々の高官と臣と連と伴造と国造が、残らず皆それぞれの主に仕えた。人を使って鞍作の臣の屍を大臣の蝦夷に渡した。そこで、漢の直達は、同族をみな集めて、甲をつけて、武器を持って、大臣を助けて軍の陣を張ろうとした。中の大兄は、將軍の巨勢の徳陀の臣を派遣して、天と地が別れて以来、君主と臣下は初めから決まっていたので、賊の一団を諭して、どうすればよいのか教えさせた。そこで、高向の臣の国押が、漢の直達に「私達は、君主の長男の為に殺される。大臣も、今日明日にも、すぐにでもその罪に問われる。それならだれのために空しく戦って、残らず処刑されるのか」と言い終わって、剱を解いて弓を投げ捨て去った。賊徒もそれに従って散り散りに逃げた。己酉の日に、蘇我の臣の蝦夷達は、誅殺される前に、残らず天皇記と国記と珍宝を焼いた。船の史の惠尺は、それで素早く、焼かれる国記を取り、中の大兄に献上した。この日に、蘇我の臣の蝦夷と鞍作の屍を、墓に葬ることを許した。また大声をあげて泣き叫ぶことを許した。そこである人が、第一の風刺の歌を説明して「その歌に『波魯波魯伱渠騰曾枳舉喩屢之麻能野父播羅』というのは、宮殿を嶋の大臣の家に繫げ立てて、中の大兄が、中臣の鎌子の連と、密かに大義を相談して、入鹿を殺そうと考えた兆しだ」と言った。第二の風刺の歌を説明して、「その歌に『烏智可拖能阿娑努能枳枳始騰余謀佐儒倭例播祢始柯騰比騰曾騰余謀湏』というのは、上宮の王達の性質がすなおで、何の罪も無いのに、入鹿の為に殺害された。仕返しは出来なかったけれど天が人を使って誅殺した兆しだ」と言った。第三の風刺の歌を説明して「その歌に『烏磨野始伱倭例烏比岐以例底制始比騰能於謀提母始羅孺伊弊母始羅孺母』と言うのは、入鹿の臣が、宮の中で、佐伯の連の子麻呂と稚犬養の連の網田の為に、誅殺された兆しだ」と言った。庚戌の日に、位を軽の皇子に讓った。中の大兄を皇太子に立てた。】とあり、四月戊戌朔は3月30日で3月が小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。
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