『日本書紀』慶長版は
「天萬豊日天皇天豊財重日足姫天皇同母弟也尊佛法輕神道爲人柔仁好儒不擇貴賤頻降恩勅天豊財重日足姫天皇四年六月庚戌天豊財重日足姫天皇思欲傳位於中大兄而詔曰云云中大兄退語於中臣鎌子連中臣鎌子連議曰古人大兄殿下之兄也輕皇子殿下之舅也方今古人大兄在而殿下陟天皇位便違人弟恭遜之心且立舅以荅民望不亦可乎於是中大兄深嘉厥議密以奏聞天豊財重日足姫天皇授璽綬禪位策曰咨爾輕皇子云云輕皇子再三固辭轉讓於古人大兄曰大兄命是昔天皇所生而又年長以斯二理可居天位於是古人大兄避座逡巡拱手辭曰奉順天皇聖旨何勞推讓於臣臣願出家入于吉野勤修佛道奉祐天皇辭訖解所佩刀投擲於地亦命帳內皆令解刀即自詣於法興寺佛殿與塔間剔除髯髮披着袈裟由是輕皇子不得固辭升壇即祚于時大伴長德連帶金靫立於壇右犬上建部君帶金靫立於壇左百官臣連國造伴造百八十部羅列匝拜是日奉於号豊財天皇曰皇祖母尊以中大兄爲皇太子以阿倍內麻呂臣爲左大臣蘇我倉山田石川麻呂臣爲右大臣以大錦冠授中臣鎌子連爲內臣増封若于戸云云中臣鎌子連懷至忠之誠據宰臣之勢處官司之上故進退廢置計從事立云々以沙門旻法師髙向史玄理爲國博士辛亥以金策賜阿倍倉梯麻呂大臣與蘇我山田石川麻呂大臣乙卯天皇々祖母尊皇太子於大槻樹之下召集群臣盟曰改天豊財重日足姫天皇四年爲大化元年」
【天の萬の豊日の天皇は、天の豊の財の重日の足姫の天皇の同母弟だ。佛法を尊んで、神道を軽んじた。人柄は、優しく思いやりがあって儒教を好んだ。貴賤関係なく何度も情け深い言葉をかけた。天の豊の財の重日の足姫の天皇の四年の六月の庚戌の日に、天の豊の財の重日の足姫の天皇が、位を中の大兄に継ごうと考えて詔勅した云云。中の大兄は、辞退して中臣の鎌子の連に話した。中臣の鎌子の連と、「古人の大兄は、殿下の兄です。軽の皇子は、殿下の妻の父です。今はまだ古人の大兄が居るのに殿下が皇位にのぼったら、人と言うのは弟が慎んで譲るのが大事なのにそれに反する。少しの間、舅を立てることで人々の思いに答えれば、よいのでは」と話し合った。そこで、中の大兄は、その話にとても納得して黙って聞き入れた。天の豊の財の重日の足姫の天皇は、天皇の璽を授けて、皇位を譲った。書付を渡して「あゝ軽皇子よ」云云と言った。軽皇子は、何度も辞退したので代わりに古人の大兄に讓って、「大兄の命は、前の天皇の子だ。そしてまた年長だ。この二つの理由で皇位に就くべきだ」と言った。そこで、古人の大兄は、皇位に尻込みして、腕組みして「天皇の考えに従います。どうして私に譲ろうとするのですか。私は出家して吉野に入山したい。佛の道に勤めて修行して、天皇を助けたい」と辞退し、言い終わって帯びていた刀を外して地面に投げつけた。そして衝立の向こうに命令して部下の刀を外させた。それで自分から法興寺の佛殿と塔との間に行って、髯や髮を剃り落して、袈裟を被った。これで、軽皇子は固辭できず、壇上に登って即位した。その時、大伴の長徳の連が金の矢入れをつけて、壇の右に立った。犬上の健部の君は金の矢入れをつけて、壇の左に立った。役人の、臣や連や国造や伴造や百八十部が、整列して礼拝した。この日に、豊の財の天皇を皇祖母の尊と呼んだ。中大兄を、皇太子にした。阿倍の内摩呂の臣を、左大臣にした。蘇我の倉の山田の石川の麻呂の臣を、右大臣にした。大錦冠を、中臣の鎌子の連に授けて、内臣とし、若干戸を増封した云云。中臣の鎌子の連は、この上なく忠義にはげんで忠誠心を抱いた。役人を使う地位の君主を補佐する役職に就いた。それで、進退や配置換えを考え従わせ仕事がはかどった云云。沙門の旻法師と高向の史の玄理を、国政の相談役にした。辛亥の日に、金象嵌の書付を、阿倍の倉梯麻呂の大臣と蘇我の山田の石川の麻呂の大臣に与えた。乙卯の日に、天皇と皇祖母の尊と皇太子が、欅の大木の下に、役人を呼び集めて誓った。天豊の財の重日の足姫の天皇の四年を改め大化の元年とした。】とある。
この孝徳天皇前紀はとても奇妙で、孝徳天皇が即位しても皇極天皇4年で、本来なら孝徳元年でなければならないし、そして、孝徳元年が無くて大化元年で、大化元年は『二中歴』に「朱鳥九年丙戌仟陌町収始又(?方)始大化六年乙未」と686年朱鳥で695年大化と記述している。
『海東諸國紀』に「九年乙未改元大和三年丁酉」とどちらの元号が正しいかはわからないが、695年に改元し、この書は大和3年が文武元年と『日本書紀』を基にしているが、「大和3年」と『日本書紀』と異なる資料を使っているようだ。
そして、この孝徳天皇は中の大兄の舅と記述されるが、もちろん、645年には中の大兄は生まれておらず、軽皇子が中大兄で、舅が「息長足日廣額天皇女間人皇女爲皇后」と田村皇子のこと、
皇極天皇は吉備嶋皇祖母すなわち吉備姫で、皇極天皇即位前紀「茅渟王女也母曰吉備姫王」ではなく茅渟王の妻で後に斉明天皇前紀「橘豐日天皇之孫高向王而生漢皇子後適於息長足日廣額天皇」と舒明天皇の皇后となり、『古事記』「日子人太子娶漢王之妹大俣王生御子知奴王」の大俣王が吉備姫、漢王が孝徳天皇で、「東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻」と駒の子が高向王で漢皇子が古人皇子なのだろうか。
また、田村皇子が『古事記』に「日子人太子娶庶妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」と崗本天皇で前天皇の皇太子が彦人茅渟王で、『藤氏家伝』に「及崗本天皇御宇之初以良家子簡授錦冠令嗣宗業固辭不受歸去三島之別業養素丘園高尚其事俄而崗本天皇崩皇后即位王室衰微政不自君」と崗本天皇が急死した。
前天皇の皇太子の彦人は647年大化三年「災皇太子宮時人大驚恠」でただの火災なら「時人大驚恠」は不要で、この時太子も焼死し、崗本天皇が即位したが急死して皇極天皇元年「息長山田公奉誄日嗣」と息長氏の皇太子茅渟王の死も悼んだのだろう。
『古事記』を記述した時、田村皇子の崗本天皇が即位して皇極天皇が皇后になる前、茅渟王の妃の皇極天皇、皇極天皇も孝徳天皇も『古事記』の作者には解らない状態の時、推古天皇のあと太子だった彦人は実質天皇に即位していて皇極天皇二年「或本云呼廣額天皇爲高市天皇也」のように高市天皇と呼ばれ、厩戸豊聡耳は太子でも天皇でも無いが上宮と天皇と同待遇だった状態で、馬子の朝廷と彦人が太子の朝廷が覇を競い、2つあった朝廷を馬子の朝廷がまとめ上げたと高らかに宣言した。
だから、推古天皇前紀「因以奉天皇璽印」の稲目・彦人と舒明天皇元年の「大臣及群卿共以天皇之璽印獻於田村皇子」の馬子・蝦夷・入鹿の政権交代があったことを示し、俀国の孝徳帝が物部氏及び蘇我・馬子と稲目・倭国及び俀国と2つの勢力があった日本を一つに纏めたと璽を示して宣言したと思われる。
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