『日本書紀』慶長版は
「九月丙寅朔遣使者於諸國治兵戊辰古人皇子與蘇我田口臣川掘物部朴井椎子吉備笠垂倭漢文直麻呂朴市秦造田來津謀反丁丑吉備笠臣垂自首於大兄曰吉野古人皇子與蘇我田口臣川掘等謀反臣預其徒中大兄即使菟田朴室古髙麗宮知將兵若干討古人大市皇子等甲申遣使者於諸國錄民元數仍詔曰自古以降毎天皇時置標代民垂名於後其臣連等伴造國造各置已民恣
情駈使又割國縣山海林野池田以爲已財爭戰不巳或者兼幷數萬頃田或者全無容針少地及進調賦時其臣連伴造等先自收(?斂)然後分進修治宮殿築造園陵各率己民隨事而作易曰損上益下節以制度不傷財害民方今百姓猶乏而有勢者分割水陸以爲私地賣與百姓年索其價從今以後不得賣地勿妄作主兼幷劣弱百姓大悅冬十二月乙未朔癸卯天皇遷都難波長柄豊碕老人等相謂之曰自春至夏鼠向難波遷都之兆也戊午越國言海畔枯査向東移去沙上有跡如耕田狀是年也太歲乙巳」
【九月の丙寅が朔の日に、使者を諸国に派遣して、武器を管理させた。戊辰の日に、古人の皇子が、蘇我の田口の臣の川堀と物部の朴井の連の椎子と吉備の笠の臣の垂と倭の漢の文の直の麻呂と朴市の秦の造の田來津と謀反を起こした。丁丑の日に、吉備の笠の臣の垂が、中の大兄に自首して「吉野の古人の皇子が、蘇我の田口の臣の川堀達と謀反を起こそうとしている。
私はその中に身を預けた」と言った。中の大兄は、それで菟田の朴室の古と高麗の宮知の軍団若干を率いて、古人の大市の皇子達を討った。甲申の日に、使者を諸国に派遣して、人民の基本となる人数を記録した。それで「昔からこれまで、天皇は代ごとに、代の人民を置いたと言って、名を後代に知らしめた。その臣連達と伴造と国造それぞれが人民を置いて、自分の思うがまゝにこき使った。また、国縣の山や海と林や野原と池や田を分捕って、自分の財力にして、騒乱が絶えなかった。或る者は数萬代もの田を自分の物にした。或る者はほとんど針を刺す土地も無い。年貢を納める時に、その臣や連や伴造達は、まず自分の取り分を取り立てて、そのあとで百姓と年貢を分けて献上する。宮殿を造り、庭園や陵を築造するのに、それぞれ自分の領民を率いて、造る事業に従わせた。周易(※周易正義益:損上益下、周易節:節以制度不傷財不害民)に『上の取り分を減らして下に役立てなさい。季節に従った決まりであれば国の財産は傷まず民にも害がない』と言う。今こそ、百姓が貧しいので、力がある者は、水や土地を分割して、百姓に売り与えて、年々にその代価をわけなさい。今から後、土地を売ってはいけない。節操なく主になって、勢力の弱い者を我が物にしてはならない」と詔勅した。百姓はとても喜んだ。冬十二月の朔が乙未の癸卯の日に、天皇は、都を難波の長柄の豊碕に遷した。老人達は、「春から夏までに、鼠が難波に向ったのは、都を遷す兆しだった」と噂した。戊午の日に、越国が、「海の畔に、筏が東に向って去って行った。砂の上に引きずった跡が有った。耕した田のようだった」と言った。この年は、太歳が乙巳だった。】とあり、標準陰暦と合致する。
古人皇子の反乱は朴市田來津が661年天智天皇前紀「小山下秦造田來津守護百濟」と649年制定の冠位19階の冠位をもち、663年の天智天皇二年「官軍敗績赴水溺死者衆艫舳不得廻旋朴市田來津仰天而誓切齒而嗔殺數十人於焉戰死」と白村江敗戦で戦死していて倭国側の人物で、謀反を起こしたにも関わらず、生き延びているのだから、古人皇子は罠にはまったのだろう。
古人皇子は「或本云古人太子此皇子入吉野山故或云吉野太子」と太子と呼ばれ、『藤氏家伝』に「崗本天皇御宇之初以良家子簡授錦冠令嗣宗業固辭不受歸去三島之別業」と崗本天皇の初めに、647年制定の冠位13階で錦冠を授かって地位を与えられて宗業を継ぐように命じられたが辞退して、さらなる上を狙ったのである。
すなわち、この時にもクーデターが有り、「夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛生古人皇子」と馬子の孫で舒明天皇の皇太子が古人皇子、すなわち岡本宮天皇が池邉天皇の茅渟皇太子を殺害し、舅の舒明天皇を即位させ、舒明天皇の皇太子すらも殺して、岡本宮天皇が皇太子になった可能性がある。
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