今回は冠位制定をまとめてしまったので長文となったので本文は後半にした。
勤務時間は以前記述した通り、仕事が忙しいと記述しているのだから、日の出から日没が勤務時間と考えられ、時間の基準は夏至か冬至の観測点が遺跡に有り、夏至の日の出から日没で、午前4時頃に明るくなり、夏至の日の出は5時前で日没は19時の労働時間14時間で大化元年に「收牒者昧旦執牒奏於內裏」と日の出前に牒を届けなさいと記述し、「旦夕」などの用法はたくさん現れる。
この冠位は『藤氏家伝』の「崗本天皇御宇之初以良家子簡授錦冠」と崗本天皇が即位したすぐに錦冠を授けられ、錦冠は647年から大化五年「制冠十九階・・・小紫七曰大華上」と649年以降、天智天皇三年「其冠有廿六階・・・大錦上」と664年まで錦位を授与できず、646年に『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』に「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年」と646年に死亡した池邊天皇を継いだ崗本天皇が十三階を制定して鎌足に錦冠を与えた。
冠位十九階は大化元年「三輪色夫君額田部連甥爲法頭」と645年に無冠の色夫君が大化五年「遣小華下三輪君色夫大山上掃部連角麻呂等於新羅」と649年に小華下、斉明天皇七年「遣前將軍大華下阿曇比邏夫連」と661年、阿曇比邏夫に大華下を授与されている。
この短い期間に官位を変えるのはこの間に政権交代が有ったことを示し、冠位十三階は是年となっていて、池邉天皇の後を継いだ崗本天皇が冠位十三階を制定し、12月に有馬温泉に行っている隙に太子が殺害され、翌年崗本天皇が崩じて新しい皇太子となっていたのは、舒明天皇十三年「是時東宮開別皇子年十六而誄之」の皇太子は古人大兄で16歳だったので皇位継承の20歳に届かず、皇后の皇極天皇が即位し、冠位一十三階が気に入らない左右の大臣が政権を取って冠位十九階を制定したと考えられる。
また、金春秋は『三国史記』に648年眞德王二年「遣伊金春秋及其子文王朝唐・・・春秋還至海上 遇高句麗兵・・・ 春秋乘小船至國」と唐からの帰りに高句麗に攻撃されて、恐らく捕まって小舟で逃げ出して帰国し、「遣小徳高向博士黒麻呂於新羅而使貢質」と人質として新羅に居た高向黒麻呂達も一緒に逃げ出して送ってくれたと考えられ、650年には眞德王四年 「遣使大唐告破百濟之衆王織錦作五言太平頌遣春秋子法敏以獻唐皇帝」と唐に出かけているので、俀国の姫が天皇なのですぐに返したと考えられる。
それ以外なら、650年眞德王四年に「遣使大唐告破百濟之衆王織錦作五言太平頌遣春秋子法敏以獻唐皇帝」と、この帰りだが、654年白雉五年「遣大唐押使大錦上高向史玄理」で遅すぎ、倭国の冠位の高向玄理が新羅に行くことは考えられず、俀国の冠位小徳の冠位は理解でき、「初適於橘豐日天皇之孫高向王而生漢皇子」と皇極天皇の前夫と同姓で、前夫の子が漢皇子、漢人は中国人なら呉人で、中国の漢から官位を受けた邪馬台国の人が漢人と考えられ、俀国の王室に関係がある。
『日本書紀』慶長版は
「是歳壞小郡營宮天皇處小郡宮而定禮法其制曰凡有位者要於寅時南門之外左右羅列候日初出就庭再拜乃侍于廳若晩參者不得入侍臨々到午時聽鍾而罷其擊鍾吏者垂赤巾於前其鍾臺者起於中庭工人大山位倭漢直荒田井比羅夫誤穿溝瀆控引難波而改穿疲勞百姓爰有上䟽諫者天皇詔曰妄聽比羅夫所詐而空穿瀆朕之過也即日罷役冬十月甲寅朔甲子天皇幸有間温湯左右大臣群卿大夫從焉十二月晦天皇還自温湯而停武庫行宮是日灾皇太子宮時人大驚恠是歲制七色一十三階之冠一曰織冠有大小二階以織爲之以繡裁冠之縁服色並用深紫二曰繡冠有大小二階以繡爲之其冠之縁服色並同織冠三曰紫冠有大小二階以紫爲之以織裁冠之縁服色用淺紫四曰錦冠有大小二階其大錦冠以大伯仙錦爲之以織裁冠之縁其小錦冠以小伯仙錦爲之以大伯仙錦裁冠之縁服色並用真緋五曰青冠以青絹爲之有大小二階其大青冠以大伯仙錦裁冠之縁其小青冠以小伯仙錦裁冠之縁服色並用紺六曰黑冠有大小二階其大黒冠以車形錦裁冠之縁其小黒冠以薐形錦裁冠之縁服色並用緑七曰建武黒絹爲之以紺裁冠之縁別有鐙冠以黒絹爲之其冠之背張漆羅以縁與鈿異髙下形似於蟬小錦冠以上之鈿雜金銀爲之大小青冠之鈿以銀爲之大小黒冠之鈿以銅爲之建武之冠無鈿也此冠者大會饗客四月七月齋時所着焉新羅遣上臣大阿飡金春秋等送博士小德髙向黒麻呂小山中々臣連押熊來獻孔雀一隻鸚鵡一隻仍以春秋爲質春秋美姿顏善談咲造渟足柵置柵戸老人等相謂之曰數年鼠向東行此造柵之兆乎四年春正月壬午朔賀正焉是夕天皇幸于難波𥔎宮二月壬子朔於三韓遣學問僧己來阿倍大臣請四衆於四天王寺迎佛像四軀使坐于塔內造靈鷲山像累積鼓爲之夏四月辛亥朔罷古冠左右大臣猶著古冠是歲新羅遣使貢調治磐舟柵以備蝦夷遂選越與信濃之民始置柵戸五年春正月丙午朔賀正焉二月制冠十九階一曰大織二曰小織三曰大繡四曰小繡五曰大紫六曰小紫七曰大華上八曰大華下九曰小華上十曰小花下十一曰大山上十二曰大山下十三曰小山上十四曰小山下十五曰大乙上十六曰大乙下十七曰小乙上十八曰小乙下十九曰立身是月詔博士髙向玄理與釋僧旻置八省百官」
【この歳に、小郡を壊して宮を造った。天皇は、小郡の宮で、礼法を決めた。その決まりには「全ての位を持つ者は、必ず、寅の時(日の出前夏は4時)に南門の外に、左右に並んで、日の出を見ながら、庭に行って二礼してから役所で仕事しなさい。もし遅く来た者は、入室してはならない。午の時(?12時では早いので14時間後の18時)に(日の入りに)、鍾を聞いてから帰りなさい。その鍾を撃つ官吏は、赤の布を前に垂らせ。その鍾の台は、中庭に立てなさい」と決めた。用水造の職人の大山位の倭の漢の直の荒田井の比羅夫が、間違えて用水を掘って、難波に引き込んだ。それで掘りなおして百姓を疲労させた。そこで書面で上司を諫めた者が有った。天皇は、「簡単に比羅夫に騙されて、意味も無く用水を掘ったのは、私の誤りだ」と詔勅した。直ぐに用水づくりを止めた。冬十月の朔日が甲寅の甲子の日に、天皇は、有間の温泉に幸行した。左右大臣と高官が従った。十二月の晦の日に、天皇が、温泉から帰って、武庫の行宮で停泊した。この日に、皇太子の宮が火事となった。当時の人は、とても驚いて怪しんだ。この歳に、七色の十三階の冠を決めた。第一は織冠で大小二階、織って作り、冠は縁を刺繍して、服の色はおそろいで深紫を用いなさい。第二は、繍冠で大小二階、縫い取りで作り、冠の縁と服の色は、おそろいで織冠と同じだ。第三は、紫冠で大小二階、紫で作り、織った冠の縁を裁ち、服の色は薄紫を用いなさい。第四は、錦冠で大小二階、大錦冠は、大伯仙模様の錦で作り、織った冠の縁を裁ち、小錦冠は、小伯仙模様の錦で作り、大伯仙の錦で、冠の縁を裁て。服の色はおそろいで真緋にしろ。第五は、青冠で青絹で作り、大小二階、大青冠は、大伯仙模様の錦で、冠の縁で裁ち、小青冠は、小伯仙模様の錦で、冠の縁で裁ち、服の色はお揃いで紺にしろ。第六は、黒冠で大小二階、大黒冠は、車形の錦で、冠の縁で裁ち、小黒冠は菱形の錦で、冠の縁で裁ち、服の色はお揃いで緑にしろ。第七は、建武で黒絹で作り、紺で冠の縁で裁ち、それとは別に鐙冠が有る。黒絹で作りなさい。冠の後ろには、漆を塗った織物を張って、縁とかんざしで、地位の高低によって変える。形は蝉のようにしなさい。小錦冠より上のかんざしは、金銀をまじえて作り、大小青冠のかんざしは、銀で作り、大小黒冠のかんざしは、銅で作り、建武の冠は、かんざしがない。この冠は、大法会や饗応、四月と七月の儀礼の時に、着けるものだ。新羅は、上臣の大阿飡の金春秋達を派遣して、博士の小徳の高向の黒麻呂と小山中の中臣の連の押熊を送って来て孔雀一隻と鸚鵡一隻を献上した。それで春秋を人質にした。春秋は、顔貌が美しくて巧みな話で笑わせた。渟足柵を造って、柵戸を置いた。老人達は、「何年か鼠が東に向って行くのは、この、柵を造る兆だったか」と噂した。四年の春正月の壬午が朔の日に、年賀の儀式を行った。この夕に、天皇は、難波の碕の宮に行幸した。二月の壬子が朔の日に、三韓に学問僧を派遣した。己未の日に、阿倍の大臣が、四つの信者達に頼んで四天王寺へ、佛像四躯を迎えて、仏塔の中に鎮座させた。釈迦仏が経典を説いている像を造った。鼓を作って積み上げた。夏四月の辛亥が朔の日に、古い冠位を止めた。左右の大臣は、古い冠を着けていた。この歳に、新羅が、使者を派遣して年貢を献上した。磐舟の柵を作って統治して、蝦夷に備えた。それで越と信濃との人々の中から見張りを選んで柵戸に置いた。五年の春正月の丙午がの朔の日に、年賀の儀式を行った。二月に、冠位十九階を決めた。第一は、大織、第二は小織、第三は大繍、第四は小繍、第五は大紫、第六は小紫、第七は大花上、第八は大花下、第九は小花上、第十は小花下、第十一は大山上、第十二は大山下、第十三は小山上、第十四は小山下、第十五は大乙上、第十六は大乙下、第十七は小乙上、第十八は小乙下、第十九は立身だ。この月に、博士の高向玄理と僧の僧旻に詔勅して、八省と役人を置かせた。】とあり、十月甲寅朔甲子は10月2日で前月が小の月で大の月なら標準陰暦と合致するが、あまり2日になる事が少ないので他を調べたが621年しか無く、647年の事と考えた。
夏四月辛亥朔は3月30日で3月が小の月なら標準陰暦と合致し、五年春正月丙午朔は2月1日で2月が閏月で12月が閏月なら標準陰暦と合致し、他の候補なら675年となるが、これ以上の分析はできず、また他は標準陰暦と合致する。
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