2020年10月30日金曜日

最終兵器の目 孝徳天皇 白雉3

  『日本書紀』慶長版は

四年夏五月辛亥朔壬戌發遣大唐大使小山上吉士長丹副使小乙上吉士駒學問僧道嚴道通道光惠施覺勝弁正惠照僧忍知聡道昭定惠安達道觀學生巨勢臣藥氷連老人百二十一人倶乗一舩以室原首御田爲送使又大使大山下髙田首根麻呂副使小乙上掃守連小麻呂學問僧道福義向幷一百二十人倶乗一舩以土師連八手爲送使是月天皇幸旻法師房而問其疾遂口勅恩命六

月百濟新羅遣使貢調獻物修治處處大道天皇聞旻法師命終而遣使吊幷多送贈皇祖母尊及皇太子等皆遺使吊旻法師喪遂爲法師命畫工狛堅部子麻呂鯽魚戸直等多造佛菩薩像安置於川原寺秋七月被遣大唐使人髙田根麻呂等於薩麻之曲竹嶋之門合舩沒死唯有五人繋胸一板流遇竹嶋不知所計五人之中門部金採竹爲筏泊于神嶋凡此五人經六日六夜而全不食飯於是褒美金進位給祿是歲太子奏請曰欲冀遷于倭京天皇不許焉皇太子乃奉皇祖母尊間人皇后幷率皇弟等往居于倭飛鳥河邊行宮于時公卿大夫百官人等皆隨而遷由是天皇恨欲捨於國位令造宮於山𥔎乃送歌於間人皇后曰舸娜紀都該阿我柯賦古磨播比枳涅世儒阿我柯賦古麻乎比騰瀰都羅武箇

【四年の夏五月の朔が辛亥の壬戌の日に、大唐に遣使を送り大使の小山上の吉士の長丹、副使の小乙上の吉士の駒、学問僧の道嚴と道通と道光と惠施と覚勝と辨正と惠照と僧忍と知聴と道昭と定惠と安達と道観と、学生の巨勢の臣の藥と氷の連の老人、百二十一人が、一緒に船に乗った。室原の首の御田を、送使とした。また大使の大山下の高田の首の根麻呂と副使の小乙上の掃守の連の小麻呂、と学問僧の道福と義向、併せて百二十人が、一緒に船に乗った。土師の連の八手を、送使とした。この月に、天皇は、旻法師の房に行幸して、見舞いに行って、ありがたい言葉を直接述べた。六月に、百済と新羅が、使者を派遣して年貢を献上した。あちこちに大きい道を造った。天皇は、旻法師が絶命したと聞いて、使者を派遣して弔問した。併せて多くの贈答品を送った。皇祖母の尊と皇太子達が、皆、使を派遣して、旻法師の喪をいたんだ。それで法師の爲に、絵師の狛の竪部の子麻呂と鯽魚戸の直達に命じて、たくさんの佛や菩薩の像を造って川原寺に安置した。秋七月に、大唐に派遣した使者の高田の根麻呂達が、薩麻湾と竹嶋の間で、船が衝突して沈んで死んだ。ただ五人だけ板の上に胸を載せて、竹嶋に流着いた者がいた。他になすすべが無かった。五人の中に、門部の金が竹を採って筏を作り、神嶋に停泊した。全てこの五人は、六日六夜をずっと、全く食べられなかった。金を褒賞して、位を昇進して俸給した。この歳に、太子が、「できましたら倭の京に遷りたい」と願い出た。天皇は、許さなかった。皇太子は、それで皇祖母の尊と間人の皇后を先頭にして、一緒に皇弟達を率いて、倭の飛鳥の河邊の行宮にいた。その時に、公卿や高官と役人達が、皆一緒に遷った。これで、天皇は、恨んで国や位を捨てようと思って、宮を山碕に造らせた。それで歌を間人皇后に送って()】とあり、標準陰暦と合致する。

ここでも、唐に行く道光が694年持統八年に「贈律師道光賻物」と死亡して贈り物を与えていて、694年が60代とすると、渡唐が654年の20代の半人前なら最後に記述される可能性が高く、660年の30代の渡唐に現実味があり、鎌足の長男の定惠が665年に「定惠以乙丑年付劉徳高等船歸」、天智天皇四年「唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等」と帰国し、定惠が654年の渡唐なら、帰りももっと早く、斉明天皇四年「奉勅乘新羅船往大唐國」や斉明天皇五年「遣小錦下坂合部連石布大仙下津守連吉祥使於唐國」と渡唐した人々と帰えればよい。

また、鎌足は648・9年に『藤氏家伝』に「崗本天皇御宇之初以良家子簡授錦冠」と647年に制定された錦冠を初授され、659年に次男の不比等が生まれているのだから、654年に鎌足は20歳程度で、定惠が13歳を越えているとは思えず、663・4年に渡唐したと考えられる。

旻法師の為の仏像を奉納した川原寺は、天武天皇二年「始冩一切經於川原寺」、天武天皇十四年「幸于川原寺施稻於衆僧・・・誦經於大官大寺川原寺飛鳥寺因以稻納三寺」、朱鳥元年「運川原寺伎樂於筑紫仍似皇后宮之私稻五千束納于川原寺・・・因以於川原寺説藥師經・・・遣百官人等於川原寺・・・悉集川原寺」と飛鳥浄御原関連の寺で、白雉年間では辻褄が合わないため山田寺と解釈しているが、白鳳4年の664年頃の話なら、既に斉明天皇が飛鳥川原宮に遷都して、そこに川原寺を建立した可能性が有る。

その飛鳥だが、顕宗天皇元年「近飛鳥八釣宮」と遠い飛鳥と近い飛鳥が有り、崇峻天皇即位前紀「本願於飛鳥地起法興寺」、崇峻天皇元年「此地名飛鳥眞神原亦名飛鳥苫田」、舒明天皇二年「天皇遷於飛鳥岡傍。是謂岡本宮」、皇極天皇二年「自權宮移幸飛鳥板盖新宮」、斉明天皇元年「災飛鳥板盖宮故遷居飛鳥川原宮」斉明天皇二年「飛鳥岡本更定宮地」と接頭語に倭など一切つけていない。

それにも関わらず、倭を付加したのは、奈良県にある飛鳥は別に記述しなくても大和の飛鳥で、飛鳥寺の近くに八釣があり、近飛鳥と呼ばれているのだから、遠い飛鳥が倭飛鳥で、この倭は倭国の倭、斉明天皇は七年に「天皇遷居于朝倉橘廣庭宮」と倭国の地の朝倉に遷都していて、 皇極天皇二年以降の飛鳥は朝倉の地の飛鳥の可能性が高く、飛鳥浄御原宮の時はほとんどが筑紫で饗応していて、饗応は首都で行うのが普通で、飛鳥浄御原宮は筑紫に有り、遠飛鳥・倭飛鳥は筑紫に有ったと考えられ、川原寺も筑紫に有った可能性が高い。

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