2020年10月14日水曜日

最終兵器の目 孝徳天皇 大化4

  『日本書紀』慶長版は

二年春正月甲子朔賀正禮畢即宣改新之詔曰其一曰罷昔在天皇等所立子代之民處々屯倉及別臣連伴造國造村首所有部曲之民處處田莊仍賜食封大夫以上各有差降以布帛賜官人百姓有差又曰大夫所使治民也能盡其治則民頼之故重其祿所以爲民也其二曰初修京師置畿內國司郡司關塞斥候防人驛馬傳馬及造鈴契定山河凢京毎坊置長人四坊置令一人掌按撿戸口督察姧非其坊令取坊內明廉強直堪時務者宛里坊長並取里坊百姓清正強(?□)(?)若當里坊無人聽於比里坊簡用凢畿內東自名墾横河以來南自紀伊兄山以來(兄此云制)西自赤石櫛淵以來北自近江狹々波合坂山以來爲畿內國凡郡以四十里爲大郡三十里以下四里以上爲中郡三里爲小郡其郡司並取國造性識清廉堪時務者爲大領少領強(?□)聡敏工書笇者爲主政主帳凡給驛馬傳馬依皆鈴傳符剋數凡諸國及關給鈴契並長官執無次官執其三曰初造戸籍計帳班田收授之法凡五十戸爲里毎里置長一人掌按撿戸口課殖農桑禁察非違催駈賦役凡田長三十步廣十二步爲段十段爲町段租稻二束二把町租稻二十二束(?)其四曰罷舊賦役而行田之調凢絹絁絲緜並隨鄕土所出田一町絹一丈四町成疋長四丈廣二尺半絁二丈二町成疋長廣同絹布四丈長同絹絁一町成端別收戸別之調一戸貲布一丈二尺凡調副物塩贄亦隨鄕土所出凡官馬者中馬毎一百戸輸一疋若細馬毎二百戸輸一疋其買馬直者一戸布一丈二尺凢兵者人身輸刀甲弓矢幡鼓凡仕丁者改舊毎三十戸一人而毎五十戸一人以(?)諸司以五十戸(?)仕丁一人之粮一戸庸布一丈二尺庸米五斗凡采女者貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者以一百戸(?)采女一人粮庸布庸米皆准仕丁是月天皇御子代離宮遣使者詔郡國修營兵庫蝦夷親附

二年の春正月の甲子が朔の日に、正月を祝う式典が終わって、規則を新しくする詔勅を宣下して 「第一に、昔から在った天皇達が始めた子代の民やあちこちの屯倉、および、ほかにも臣や連や伴造や国造や村の首が持っている私有民とあちこちの私有地を中止しなさい。それで領地を高官より以上に差をつけ与える。それより下は絹の布で役人や百姓に差をつけて与える。また高官は人々を統治しなさい。その政策に尽力すれば人民は頼ってくる。それで、その俸給をたくさん与えるのは人々のためなのだ。第二に、はじめて都に手を加えて、畿内の国司と郡司と関所と斥候と警備兵と早馬と宿継ぎの馬を置いて合図の鈴と通行証を造って、国境を決めなさい。だいたい都には町毎に頭を一人置きなさい。四つの町に長官を一人を置きなさい。戸数をよく考えて取り締まりり、悪者かどうかを監督しなさい。その坊の長官は、良く見分けて強力に、その時の仕事に優れている者を選んで充てなさい。僧侶が人里に構える住まいの頭には、その人里の百姓の態度が正しく,立派で強い者を選んで充てなさい。もしその人里に該当する人物が居なかったら、隣の人里から探して任用してもよい。だいたい畿内は、東は名墾の横河からこちら、南は紀伊の兄の山からこちら、西は赤石の櫛淵からこちら、北は近江の狹狹波の合坂山からこちらを、畿内の国とする。だいたい郡は四十の里で大郡としなさい。三十の里より少ないものは、四つの里より多いところを中郡とし、三つの里を小郡としなさい。その郡司には、国造の見識があって私利私欲が無く、時々の責務を遂行できる者を選んで、大領や少領として、力強く話して物分かりが良くて、読み書きと計算が出来る者を、行政官や書記官にしなさい。だいたい早馬や宿継ぎの馬はみな鈴や通行証の回数によって与える。だいたい諸国司と関所には、鈴と通行証を与えるので長官が管理し居なければ次官が管理しなさい。第三に、はじめての戸籍と年貢の帳簿から班田收授(人数割りで与える土地と租税)の決まりつくれ。全部で五十戸を里とする。里毎に頭を一人を置く。人数を考えて取り締まりり、農耕や養蚕を命じて増産し、間違いないように吟味して、労役を寄せ集めなさい。だいたい田の長さは三十歩で、広さ十二歩を一段としなさい。十段で一町としなさい。段ごとに租税を稻二束二把、町ごとに租税を稻二十二束としなさい。第四に、古くからの労役を止めて、国の田の年貢を行いなさい。だいたい絹や絁や糸や綿は、里で作られる物に従いなさい。田一町に絹一丈、四町に一匹となる。長さ四丈は、広ささ二尺半。絁なら二丈で、二町に一匹となる。長さ広さは絹と同じだ。布が四丈で、長さ広さは絹や絁と同じだ。一町で一端とする。別に戸別に租税を徴収しなさい。一戸に麻布を一丈二尺で、租税に添えて塩や物産は、里でとれるものを出せ。官僚の馬は、中の馬は百戸毎に一匹を出しなさい。もし駿馬なら二百戸毎に一匹を出しなさい。その馬を買うとしたら、一戸に布一丈二尺としなさい。兵器は、一人に刀と甲と弓と矢とのぼりと鼓を出しなさい。雑役夫は、昔からの三十戸毎に一人だったのを、五十戸毎に一人を、役所に充てなさい。五十戸に、雑役夫一人分の食糧として充てなさい。一戸に税の布一丈二尺と、税の米を五斗。女官は、郡の少領より上の姉妹や子女の顔かたちが整っていて立派な者を貢上しなさい。百戸で、女官一人の食糧に充てなさい。夫役の代わりの布や米で、皆、雑役夫をゆるす」と詔勅した。この月に、天皇は、子代の離の宮にいた。使者を派遣して、郡国に詔勅して兵器庫を造り運営させた。蝦夷が付き従った。】とあり、正月甲子朔は645年12月30日で12月が小の月なら標準陰暦と合致する。

遷都して最初に迎える式典の4つの宣下だが、この難波宮は「戊申年」木簡が堆積層から発掘されたようで、この宮は648年の記述が有る木簡を持っていて、土器年代で660年頃の土器が出土し、「秦人凡国評」の木簡も一緒に出土した。

雄略天皇二三年に「盖爲百姓故也臣連伴造毎日朝參國司郡司随時朝集」と国司や郡司が居て評は継体天皇二四年「毛野臣聞百濟兵來。迎討背評」と百済の制度で、郡司は天武天皇元年「逮于伊賀中山而當國郡司等率數百衆歸焉」から持統八年「賜親王以下至郡司等」まで元明天皇たちが記述した部分のみ出現する。

それに対して、評は『皇太神宮儀式帳』国立国会図書館群書類従p.89に「難波長柄豊前宮御宇天萬豊日天皇御世有尓鳥墓村造神庤弖為雜神政行仕奉支而難波朝天下立評給時仁以十郷」と孝徳天皇が評を制定し、『常陸國風土記』に「長柄豊前大宮臨軒天皇之世癸丑年多珂国造石城直美夜部石城評造部志許赤等」と653年に「評造」が記述され、藤原宮跡出土木簡に 「上捄国阿波評松里」、『那須国造碑』「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年」と700年まで評督があった。

従って、ここの記述は、天智天皇の後継の皇極天皇から天智天皇までの『日本書紀』を記述した天武天皇で無く、乙巳の変や大化の改新を付け加え、天武天皇・持統天皇を記述した元明天皇の王朝の出来事の可能性があり、大宝元年正月の出来事の可能性が高く、これに不満を持った人々がクーデタを引き起こしたのだろうか。

少なくとも、この記事は『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』に「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年・・・将造寺薬師像作仕奉詔然當時崩賜造不堪」と646年にはこのような法令を発布できる余裕が無いことは確かである。

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