2020年10月16日金曜日

最終兵器の目 孝徳天皇 大化5

 今回は「大化の改新」でかなり長文で事細かな事例を記述しているので、まとめて後半にして、検証を先に記述する。

ここに出現する人物はここ以外に出現する者が蘇我右大臣」と「鹽屋鯯魚」で、斉明天皇四年に「絞有間皇子於藤白坂是日斬鹽屋連鯯魚舎人新田部連米麻呂於藤白坂」と有間皇子の反逆記事に「鹽屋鯯魚」が記述され、蘇我右大臣は孝徳天皇前紀に「蘇我倉山田石川麻呂臣爲右大臣」で649年に「誓訖自經而死」して、647年に制定された大紫も与えられる大化五年「大伴長徳連授大紫爲右大臣」とあるが蘇我右大臣の授号は無く、天智天皇一〇年「中臣金連爲右大臣」、持統四年「正廣參授丹比嶋眞人爲右大臣」と647年に授号もされないのに645年の右大臣は考えにくく、664年の就任の時に紫冠を授けられた右大臣の可能性が高い。

ところが、詔勅の内容は「明神御宇日本倭根子天皇」と『続日本紀』の文武天皇前紀「母天命開別天皇之第四女平城宮御宇日本根子天津御代豊國成姫天皇是也」、文武元年「現御神止大八嶋國所知倭根子天皇命授賜」と大宝三年「誄太上天皇謚曰大倭根子天之廣野日女尊」、元正天皇前紀「日本根子高端淨足姫天皇諱氷高天渟中原瀛眞人天皇之孫」と持統天皇から日本倭根子天皇と呼ぶが、天武天皇は呼ばれず、神亀元年「挂畏淡海大津宮御宇倭根子天皇乃万世尓不改常典」と天智天皇は呼ばれる。

『日本書紀』で開化天皇までは「()日本根子彦 」と彦と呼ばれる天皇の臣下で天武天皇が天武天皇前紀に「天渟中原瀛眞人天皇」と眞人はやはり臣下だが、『日本書紀』では持統天皇は日本根子天皇と呼ばずに天武天皇が天武天皇十二年に「明神御大八洲日本根子天皇勅命者」と呼ばれている。

すなわち、『日本書紀』の天武天皇は本来の天武天皇では無く、『続日本紀』の天武天皇で、『続日本紀』の持統天皇は『日本書紀』の持統天皇では無い持統十一年の「天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」と持統天皇は天皇では無く臣下が皇位を文武天皇に決めたと記述して、この大化の倭根子天皇と天武紀の倭根子天皇は『続日本紀』のことと解る。

そして、慶雲四年「近江大津宮御宇大倭根子天皇乃与天地共長与日月共遠不改常典」、神亀元年「挂畏淡海大津宮御宇倭根子天皇乃万世尓不改常典」、天平勝宝元年「挂畏近江大津乃宮尓御宇之天皇乃不改常典」と皇位継承を定めたのが天智天皇と言い、「皇祖大兄御名入部」の大兄が彦人と後代の人々は解釈しているが、倭根子天皇の皇祖は天智天皇で、元々皇極天皇を皇祖母と呼ぶこと自体が皇祖天智天皇の母だから皇祖母と呼び、それ以外の皇祖など皇極紀以降の『日本書紀』では有り得ず、「今分離失業」と日本統一という大業が今失われたと、大化と大宝の元号を持つ2王朝が並立していることを表している。

そして、平地に造るとき、墓に後から盛り土をすると記述されているので、横穴石室の記述と考えられ、石舞台古墳が正しそうで、玄室を造るところで中止したことが解り、石舞台古墳は玄室が高さ約4.7m、幅約3.5m、奥行き約7.6mと諸王より各段に大きく天皇と同じで、持統・天武合葬の檜隅大内陵は直径50m、高さ6.36mでやはりかなり大きい。

『日本書紀』慶長版は

二月甲午朔戊申天皇幸宮東門使蘇我右大臣詔曰明神御宇日本倭根子天皇詔於集侍卿等臣連國造伴造及諸百姓朕聞明哲之御民者懸鍾於門而觀百姓之憂作屋於衢而聽路行之謗離蒭蕘之說親問爲師由是朕前下詔曰古之治天下朝有進善之旌誹謗之木所以通治道而來諫者也皆所以廣詢于下也管子曰黃帝立明堂之議者上觀於賢也堯有衢室之問者下聽於民也舜有告善之旌而主不弊也禹立建鼓於朝而備訊望也湯有総術之廷以觀民非也武王有靈臺之囿而賢者進也此故聖帝明王所以有而勿失得而勿亡也所以懸鍾設匱拜收表人使憂諫人納表于匱詔收表人毎旦奏請朕得奏請仍又示群卿便使勘當庶無留滯如群卿等或懈怠不懃或阿黨比周朕復不肯聽諫憂訴之人當可撞鍾詔已如此既而有民明直心懷國土之風切諫陳䟽納於設匱故今顯示集在黎民其表稱縁奉國政到於京民官官留使於雜役云云朕猶以之傷惻民豈復思至此然遷都未久還似于賓由是不得不使而強役之毎念於斯未嘗安寢朕觀此表嘉歎難休故隨所諫之言罷處々之雜役昔詔曰諫者題名而不隨詔命者自非求利而將助國不言題不諫朕癈忌又詔集在國民所訴多在今將解理諦聽所宣其欲決疑入京朝集者且莫退散聚侍於朝髙麗百濟任那新羅並遣使貢獻調賦乙卯天皇還自子代離宮

二月の朔が甲午の戊申の日に、天皇は、宮の東の門に行幸した。蘇我の右大臣を呼んで「神を明確にして統治する日本倭根子天皇は、集まり仕える高官達や臣や連や国造や伴造及び諸諸の百姓に詔勅して、私が聞いたのだが、聡明で物事の道理に通じている人々を治めるのに、

鍾を宮門の両脇につけ掛けて、百姓の苦労をよく見て、小屋を辻々に作り、路を行く人の悪口をよく聞いた。卑しい人の言葉と言っても、自分で問いかけて模範となったと。このため、私は以前に詔勅を下して古くに天下を治めたことは、朝廷に良い方向に進めていく旗印の、悪口を刻んだ木があった。政道を行っていると過ちを正す者がやってきた理由だ。みなが広く下々に相談したからだ。管子(※管子桓公問第五十六管仲:黃帝立明臺之議者,上觀於賢也,堯有衢室之問者,下聽於人也。舜有告善之旌,而主不蔽也禹立諫鼓於朝,而備訊唉。湯有總街之庭,以觀人誹也。武王有靈臺之復,而賢者進也。)がいうのに、黄帝が宮殿で話し合いをしたら、お上が賢人の考えを知った。堯が巷の部屋の者に問いかけ、下民に話を聞いた。舜は善を告げる旗印が有って、主は隠さなかった。禹が大太鼓を朝廷に立てて、望みを尋ねるのに備えた。湯人が集まる庭に居て、民の間違いを観察する。武王が気象を調べる庭に居て、賢者に進言した。このため、聖帝明王が、いつも失敗せず、滅びなかった理由だ。それで、鍾を取り掛けて大箱を作って言いたいことを取り上げた人を呼ぶ。心配して忠告する人によって、訴えを大箱に納める。訴えを取り上げる人に詔勅して、毎朝、願いを奏上させる。私は奏上された願いを得ることで、役人に示して、叱り、滞ることが無いよう願う。もし高官達が、あるいは怠けて務めなかったら、あるいは権力のある者におもねり人をしりぞけたら、私までも忠告を聞かなかったら、心配して訴えた人は、鍾を撞けと詔勅した。これは詔勅したとおりだ。すでに人々はしっかりと仏道に向かう心や、郷土を考える習慣があり、大雑把に述べて強くいさめる文を設営した大箱に納める。それで、今、集まっている人々に解るように示している。その訴えには、国の政策に従うために京に来た人々を、役所に止めて雑役夫に使っている云云。わたしもこれに心を傷めている。人々がどうしてここに来たと思う。しかし都を遷して未だそう経っていない。帰った早々の客人に似ていて、使わざるを得ず、あえて使っている。そこで思い悩んで、いまだに安眠できない。私はこの訴状を見て、悦んだり嘆いたりと休めもしない。それで、いさめる言葉どおり、そこここの雑役を取りやめる。前に諫める者は名を書けと詔勅した。しかし詔勅に従わなかった。この者は、自分の為ではなく国の助けとしたからだ。書こうが書くまいが、私が葬り去らないように諫めなさい」と詔勅した。また 「集まった人々は、訴えがとてもたくさんある。今その訳を調べている。真実をよく見て、いうことをよく聞くべきだ。その疑をはっきりさせようと、京に入ってきて、朝廷に集まった者、少しの間退散しないで、朝廷に集まって側に居なさい」と詔勅した。高麗と百済と任那と新羅が、一緒に使者を派遣して年貢を献上した。乙卯の日に、天皇は、子代の離の宮から帰った。】とあり、標準陰暦と合致する。

続けて、『日本書紀』慶長版は

三月癸亥朔甲子詔東國々司等曰集侍群卿大夫及臣連國造伴造幷諸百姓等咸可聽之夫君於天地之間而宰万民者不可獨制要湏臣翼由是代々之我皇祖等共卿祖考倶治朕復思欲蒙神護力共卿等治故前以良家大夫使治東方八道既而國司之任六人奉法二人違令毀譽各聞朕便美厥奉法疾斯違令凢將治者若君如臣先當正己而後正他如不自正何能正人是以不自正者不擇君臣乃可受殃豈不愼矣汝率而正孰敢不正今隨前勅而處斷之辛巳詔東國朝集使等曰集侍群卿大夫及國造伴造幷諸百姓等咸可聽之以去年八月朕親誨曰莫因官勢取公私物可喫部內之食可騎部內之馬若違所誨次官以上降其爵位主典以下決其笞杖入巳物者倍而徵之詔既若斯今問朝集使及諸國造等國司至任奉所誨不於是朝集使等具陳其狀穗積臣咋所犯者於百姓中毎戸求索仍悔還物而不盡其介富制臣巨勢臣紫檀二人之過者不正其上云云凢以下官人咸有過也其巨勢德祢臣所犯者於百姓中毎戸求索仍悔還物而不盡與復取田部之馬其介朴井連押坂連二人者不正其上所失而翻共求巳利復取國造之馬臺直湏弥初雖諫上而遂倶濁凡以下官人咸有過也其紀麻利耆拖臣所犯者使人於朝倉君井上君二人之所而爲牽來其馬視之復使朝倉君作刀復得朝倉君之弓布復以國造所送兵伐之物不明還主妄傳國造復於所任之國被他偸刀復於倭國被他偸刀是其紀臣其介三輪君大口河邊臣百依等過也其以下官人河邊臣磯泊丹比深目百舌鳥長兄葛城福草難波癬龜犬養五十君伊岐史麻呂丹比大眼凡是八人等咸有過也其阿曇連所犯者德史有所患時於國造使送官物復取湯部之馬其介膳部臣百依所犯者草代之物收置於家復取國造之馬而換他馬來河邊臣磐管湯麻呂兄弟二人亦有過也大市連所犯者違於前詔前詔曰國司等莫於任所自斷民之所訴輙違斯詔自判菟礪人之所訴及中臣德奴事中臣德亦是同罪也涯田臣之過者在於倭國被偸官刀是不謹也小緑臣丹波臣是拙而無犯忌部木菓中臣連正月二人亦有過也羽田臣田口臣二人並無過也平群臣所犯者三國人所訴有而未問以此觀之紀麻利耆拖臣巨勢德祢臣穗積咋臣汝等三人所怠拙也念斯違詔豈不勞情夫爲君臣以牧民者自率而正孰敢不直若君或臣不正心者當受其罪追悔何及是以凢諸國司隨過輕重考而罰之又諸國造違詔送財於巳國司遂倶求利恒懷穢惡不可不治念雖若是始處新宮將幣諸神属乎今歲又於農月不合使民縁造新宮固不獲已深感二途大赦天下自今以後國司郡司勉之勗之

勿爲放逸冝遣使者諸國流人及獄中囚一皆放捨別塩屋鯯魚(鯯魚此云舉能之慮)神社福草朝倉君椀子連三河大伴直蘆(?尾直?)此六人奉順天皇朕深讚美厥心冝罷官司處々屯田及吉備嶋皇祖母處々(?貸)稻以其屯田班賜群臣及伴造等又於脱籍寺入田與山斉明天皇四年鹽屋連鯏魚送紀温湯斬鹽屋連鯯魚

三月の朔が癸亥の甲子の日に、東国の国司達に「集まって側に仕える高官や役人および臣や連や国造や伴造と諸々の百姓達、残らずよく聞け。天と地の間で君主として萬民をとりしきることは、一人ではできない。臣下の補佐が欠かせない。それで、代々の私の皇祖達が、お前達の親と一緒に治めて来た。私も神のご加護によって、高官達と共に治めよういと思っている。それで、以前に良家の高官を、東の方の八道を治めさせた。すでに国司に任せて、六人が法を聞き、二人は命令に背いた。評判はそれぞれ聞いた。私はその法を聞いたら誉めて、この命令に背いたら憎む。だいたいが統治する者は、君主も臣下もまず自分の襟を正してから、他を正せ。もし自分が正しくなかったら、どうやって他人を正せるのか。これで、自分を正さない者は、君主でも臣下でもなく、わざわいを受けるだろう。どうして慎まないでいられようか。お前達が率いて正せば正しくならないはずが無い。今、前の詔勅を守って決断しなさい」と詔勅した。辛巳の日に、東国の朝廷に集まった使者達に「側に集まった役人や高官と国造と伴造と諸々の百姓達は、残らずよく聞け。去年の八月に、私は親ら『役人の力を使って、公私の物を取ってはならない。自分達の食糧を食べなさい。自分達の馬に乗りなさい。もし教えに違反したら、次官より上は、その爵位を降格して、主典より下は、笞刑か杖刑を最終的に定める。既に入れたらその物の倍を徴収しなさい』と教えた。詔勅はこのようだった。今、朝廷に集まった使者と諸々の国造達に、国司の任地に来た者は、教え道理かどうかと問いかけた。朝廷に集まった使者達は、詳しくその状況を述べ、穗積の臣の咋が犯したことは、百姓の、家毎に物を求めた。それで悔いて物を還した。しかし全ては返さなかった。その副官の富制の臣と巨勢の臣の紫檀の、二人の過失は、その上司を正さなかった云云。すべてで、以下の官吏に、過失があった。巨勢の徳禰の臣が犯したことは、百姓の、家毎に物を求めた。また悔いて物を還した。しかし全ては返さなかった。また、屯倉の耕作者の馬を取った。その副官の朴井の連と押坂の連の二人は、その上司の過失を正さなかった。態度をかえて一緒に自分の利益を求めた。また、国造の馬を取った。臺の直の須彌は、はじめは上司を諫めたのだが、最後は同罪になった。すべて、以下の官吏に、あやまちがあった。紀の麻利耆頴の臣が犯したことは、人を朝倉の臣と井上の君の二人の所に派遣して、その為の馬を引っ張って来て観た。また、朝倉の君に刀を作らせた。また、朝倉の君の弓や布取った。また、国造が送った武器代わりの物を、調べもしないで、持ち主に返して、国造に嘘の報告をした。また、任地の国で刀を盗まれた。また、倭国で、刀を盗まれた。これは、紀の臣とその補佐の三輪の君の大口と河邊の臣百依達のあやまちだ。それ以下の官吏の河邊の臣の磯泊と丹比の深目と百舌鳥の長兄と葛城の福草と難波の癬龜と犬養の五十の君と伊岐の史の麻呂と丹比の大眼の、あわせて、八人達は、残らず過ちがある。阿曇の連が犯したことは、和徳の史が病気になった時に、国造に言って、国の税の物送った。また、湯部の馬を取った。その補佐の膳部の臣の百依が犯したのは、馬草の代わりに納める物を、自分の家に納めさせた。また、国造の馬を取って、他の馬に取り換えて来た。河邊の臣の磐管と湯麻呂の兄弟二人にも過ちがあった。大市の連が犯したのは、以前の詔勅を守らなかった。以前に『国司達は、任地で、人々が訴えたことを勝手に判断してはいけない』と詔勅した。すなわちこの詔勅を破って、菟砺の訴えを勝手に中臣の徳の下男の事を判断した。中臣の徳も同罪だ。涯田の臣の過ちは、倭国にいて、官吏が管理する刀をぬすまれた。これは慎重でなかったからだ。小緑の臣と丹波の臣は、すこしまずかったが罪は犯さなかった。忌部の木菓と中臣の連が正月に、二人とも過ちがあった。羽田の臣と田口の臣の二人には過ちが無かった。平群の臣が犯したのは、三国の人の訴えが有ったが未だに調べていないという。これをみれば、紀の麻利耆頴の臣と巨勢の徳祢の臣と穗積の咋の臣、お前達三人が詔勅を破って怠たったから拙いことになったと思えば、心を傷めずに居られないだろう。君主や臣下となった人々を養う者は自ら率先して正さなければ誰が正すと言うのか。もし、君主あるいは臣下の、心が正しく無かったら、必ず罰を受けるべきだ。後から悔やんでもどうしようもない。これで、だいたいの諸々の国司の過ちの重い軽いによって、罰を考える。また、諸々の国造が、詔勅を破って、財を自分の国司に送ってついでに利益を求めていつも汚らわしいことを考えて治めてはならない。このように考えているが初めて新しい宮に居て、諸神神前にきぬを供えようと思ったのが今年だ。また、農繁期の月で、人々を使ってはならないが、新しい宮を造ったので本当にやむを得ない。とてもこの二つの事に気を取られて、他のことがなおざりになったので、全ての罪を許す。今より後、国司と群司ははげんで努力しなさい。勝手気ままに振る舞ってはならない。使者を派遣して、諸国の流人や獄中の囚人も一緒に放免しなさい。別に鹽屋鯯魚と神社福草と朝倉の君と椀倉の連と三河の大伴の直と蘆尾の直の六人は、天皇に従った。私は、とてもその気持ちをほめたたえた。官吏のあちこちの屯田と、吉備嶋皇祖母のあちこちの稲を貸与え利息を取ることをやめなさい。その屯田を、役人や伴造達に分け与えなさい。また、戸籍から外れて漏れた寺は、田と山記入しなさい」と詔勅した。】とあり、三月癸亥朔は2月30日で、2月が小の月なら標準陰暦と合致する。

続けて、『日本書紀』慶長版は

壬午皇太子使使奏請曰昔在天皇等世混齊天下而治及逮于今分離失業属天皇我皇可牧万民之運天人合應厥政惟新是故慶之尊之頂戴伏奏現爲明神御八嶋國天皇問於臣曰其群臣連及伴造國造所有昔在天皇日所置子代入部皇子等私有御名入部皇祖大兄御名入部及其屯倉猶如古代而置以不臣即恭承所詔奉荅而曰天無雙日國無二王是故兼幷天下可使万民唯天皇耳別以入部及所封民簡(?)仕丁從前處分自餘以外恐私駈役故獻入部五百二十四口屯倉一百八十一所

の日に、皇太子は、使者を派遣して「昔の天皇達の世ではバラバラな天下を一つにして治め、今は別れて大業を失った。天皇と一緒に私の天皇が、萬民を養って連れて行き、天も人も一緒応えて、その政治を変革した。これで、慶び尊んで、いただきひれ伏して奏上する。威厳と徳のある神の為に現れた八島の国を御す天皇が、臣下に問いかけて『多くの臣と連及び伴造と国造がもつ、昔から天皇が置いた曰く子代の人部が、皇子達の私有する御名の入部が、皇祖の大兄の御名人部及びその屯倉は、まだ古い時代のように、置くか否か』と問いかけた。私は、それで恭んで詔勅を聞いて、『天に二つの日が無く。国に二人の王はいない。それで、天下を均衡させて、萬民を使うのは、ただ天皇だけだ。特に、入部及び与えた領民を、雑役夫に連れてきて充てることは、前からの扱いに従う。それ以外は、私用でこき使うことは恐ろしい。それで、入部五百二十四口と屯倉百八十一ヶ所を献上した』と答えた」と裁可を求めた。】とある。

続けて、『日本書紀』慶長版は

甲申詔曰朕聞西土之君戒其民曰古之葬者因髙爲墓不封不樹棺槨足以朽骨衣衿足以朽完

而巳故吾營此丘墟不食之地欲使易代之後不知其所無藏金銀銅鐵一以以瓦器合古塗車蒭靈之義棺漆際會奠三過飯含無以珠玉無施珠襦玉柙諸愚俗所爲也又曰葬者藏也欲人之不得見也廼者我民貧絶專由營墓爰陳其制尊卑使別夫王以上之墓者其內長九尺濶五尺其外域方九尋髙五尋役一千人七日使訖其葬時帷帳等用白布有轜車上臣之墓其內長濶及髙皆准於上其外域方七等尋髙三尋役五百人五日使訖其葬時帷帳等用白布擔而行之下臣之墓者其內長濶及髙皆准於上其外域方五尋髙二尋半役二百五十人三日使訖其葬時帷帳等用白布亦准於上大仁小仁之墓者其外長九九尺髙濶各四尺不封使平役一百人一日使訖大禮以下小智以上之墓者皆准大仁役五十人一日使訖凢王以下小智以上之墓者宜用小石其帷帳等冝用白布庶民亡時收埋於地其帷帳等可用麁布一日莫停凡王以下及至庶民不得營殯凡自畿內及諸國等宜定一所而使收埋不得汙穢散埋處處凡人死亡之時若經自殉或絞人殉及強殉亡人之馬或爲亡人藏寶於墓或爲亡人斷髮刺股而誄如此舊俗一皆悉斷縱有違詔犯所禁者必罪其族復有見言不見不見言見聞言不聞不聞言聞都無正語正見巧詐者多有奴婢欺主貧困自託勢家求活勢家

仍強留買不送本主者多復有妻妾爲夫被放之日經年之後適他恒理而此前夫三四年後貪求後夫財物爲巳利者甚衆復有恃勢之男浪要他女而未納際女自適人其浪要者嗔求兩家財物爲巳利者甚衆復有亡夫婦若經十年及二十年適人爲婦幷未嫁之女始適人時於是妬斯夫婦使祓除多復有爲妻被嫌離者特由慙愧所惱強爲事瑕之婢復有屢嫌(?)姧他好向官司請決假使得明三證而倶顯陳然後可諮詎生浪訴復有被役邊畔民事了還鄕之日忽然得疾臥死路頭於是路頭

之家乃謂之曰何故使人死於余路因留死者友伴強使祓除由是兄雖臥死於路其弟不收者多復有百姓溺死於河逢者乃謂之曰何故於我使遇溺人因留溺者友伴強使祓除由是兄雖溺死於河其弟不救者衆復有被役之民路頭炊飯於是路頭之家乃謂之曰何故任情炊飯余路強使祓除復有百姓就他借甑炊飯其甑觸物而覆於是甑主乃使祓除如是等類愚俗所染今悉除斷勿使復爲

復有百姓臨向京日恐所乗馬疲痩不行以布二尋麻二束送參河尾張兩國之人雇令養飼乃入于京於還鄕日送鍬一口而參河人等不能養飼翻令痩死若是細馬即生貪愛工作謾語言被偸失若

是牝馬孕於巳家便使秡除遂奪其馬飛聞若是故今立制凢養馬於路傍國者將被雇人審告村首(首長也)方授詶物其還鄕日不湏更報如致疲損不合得物縱違斯詔將科重罪罷市司要路津濟渡子之調賦給與田地凡始畿內及四方國當農作月早務營田不合使喫美物與酒冝差清廉使者告於畿內其四方諸國國造等冝擇善使依詔催勤

甲申の日に、「私は聞いたが、西の国の君主は、その民に『昔の葬式は、高い丘を墓として、

土を盛らず樹も植えない。お棺や槨は骨が朽ちるのに足りる大きさで、衣服は肉体が朽ちるにのを包む程度だ。それで、私、此の小高い丘の、食べ物を造れない土地に作って、代が変わったらそこが解らないところにしてほしい。金や銀や銅や鐵をおさめてはいけない。第一に須恵器の容器で、昔の埴輪の車や人形の儀礼はふさわしい。棺は隙間への漆は三度塗りでよい。ご飯代わりに珠玉を含ませるな。上着や宝石箱は置くな。多くの俗人がすることだ』と戒めた。また『葬儀は隠せ。人に見られないようにしてほしい』と言った。お前は我が民がこの上なく貧しいのは、主に墓を造るためだ。それでその尊卑の違いの決まりを知らしめよう。王より上の墓は、奥域九尺(2.5m)で広さ五尺(1.5m)。外域は、縦横九尋(15m)で、高さ五(9m)尋。人夫は千人で、

七日で終わらせなさい。葬むる時の垂れ絹等は、白布を用いなさい。喪車を使え。上臣の墓は、

奥行広さ高さは、皆、上にならえ。外域は、縦横七尋(12m)、高さ三尋(6m)。人夫は五百人で、五日で終わらせなさい。葬むる時の垂れ絹等は、白布を用いなさい。棺は担いで行け。下臣の墓は、奥行広さ高さは、皆、上にならえ。外域は、縦横五尋(9m)、高さ二尋半(5m)。人夫は二百五十人で、三日で終わらせなさい。葬むる時の垂れ絹等は、白布を用いることも上にならえ。棺は担いで行け。大仁と小仁の墓は、奥行九尺(2.5m)、高さと広さは各々四尺(1m)。土は盛らずに平らにしろ。人夫は百人で、一日で終わらせなさい。大禮より下、小智より上の墓は、

皆、大仁にならえ。人夫は五十人で、一日で終わらせなさい。だいたい王より下、小智より上の墓は、小い石を用いなさい。垂れ絹等は、白布を用いなさい。庶民が死んだ時は、土の中に埋めろ。垂れ絹等は、織目のあらい布を用いなさい。一日かかってはならない。だいたい王より下、庶民に至るまで、仮安置の場所を造ってはならない。だいたい畿内から、諸国等まで、一所に決めて、埋葬させ、あちこちに埋葬して汚してはならない。だいたい死ぬ時に、もし殉死で自害し、あるいは人を絞め殺して殉死させて、無理やり亡人の馬を殉死させ、あるいは亡人の為に、宝を墓に納め、あるいは亡人の為に、髮を切り股を刺して哀悼する。このような事は古くからの因習だから、一切やめなさい。かりに詔勅に反してきんじた事を犯したら、必ずその一族を罰しなさい。また、見たのに見ないと言い、見てもいないのに見たと言い見ずして見たりと言ひ、聞いたのに聞かないと言い、聞いてもいないのに聞いたと言う物がいた。嘘、無駄話、二枚舌、悪口を言わなかったり真理を正しく知ることを全て失くし、うまくだます者が多い。また、下部の主が貧しく困っているのをいつわって、勝手に勢力が有る屋敷に託して豊かさを求める。勢力のある家は、無理やり物をわたして留めて、元の主に送り返さない者が多い。また、妻や妾が、夫に捨てられて、年が経ったら、他に嫁ぐのは当たり前だ。それをこの前夫が、三四年の後に、上夫の財産を貧り求めて、自分の利益とする者がとても多い。また、男が権力でほしいままに他人の娘を要求して、輿入れする前に娘が嫁いだら、ほしいままに要求した者が、怒って両家の財産を求めて利益とする者がとても多い。また、未亡人が、たとえば十年・二十年経って、人に嫁いだ妻、併せて、未婚の娘が、はじめて嫁ぐ時に、夫婦を妬んで、お祓いさせることが多い。また、妻に、嫌われた者が、ことさら恥をかかされたと思って無理やり離縁(?非があると)して下女にする。復、しばしば好いてすでにみだらな異性関係をもったと疑って、役所に行って判断を願い出てる。もし明白な三人の証言が有っても、二人揃って証言させてから、上司に意見を求めなさい。そうでなければ簡単に訴えなどしない。また、労役につかされた辺境の民が、仕事が終わって里に帰る日に、急病で路頭で不慮の死を迎えることがある。それで、道端の家が『どうして我が家の前で死なせるのか』と言って、死人の同伴者を引き留めて無理やりお祓いをさせる。このように、兄が路頭で不慮の死が有っても、弟が知らんふりする者が多い。また、百姓が、河で溺れ死ぬ。通り合わせた者が、それで、『どうして私が溺死に遭遇させるのか』と言って、溺れた同伴者を引き留めて、無理やりお祓いさせる。こんな理由で兄が河で溺れても、弟が救いもしない者が多くいる。また、労役につかされた民が道端で飯を炊いて食う。そこの道端の家が『どうして自分勝手に私の家の前で飯を炊いて喰う』と言って、無理やりお祓いさせる。また、百姓が、人の仕事で蒸し器を借りて飯を炊いて

蒸し器に触れて転がる。そこで、蒸し器の持ち主がお祓いさせる。このような事は、愚かな風俗に影響されたことだ。もう皆止めて二度とするな。また、百姓が、都に来るのに、乗る馬が、やせ細るのを恐れて行けないと、布を二尋と麻を二束とを、三河と尾張、二国の人に送って、飼育をしてもらおうと雇った。それで都に入った。里に帰る日に、鍬を一口送った。それで三河の人達は、飼育できず、それどころか痩せて死なせてしまう。もし是が良馬なら、むやみに欲しがり、上手い作り事で盗まれたと言う。もしこれが牝馬なら、自分の家で孕んだら、お祓いさせ、それでその馬を奪う。噂でこのように聞いた。だから今決まりを作った。全ての道端の国の馬養は、雇った人を連れて、村の頭に言って、返礼を与えなさい。里に帰る日に、さらにお礼はいらない。もしやせ細ったりしたら、物を貰ってはならない。もしこの詔勅を破ったら、重罪を課すぞ。市の役人と要路の渡し舟の船頭の年貢を止めて、田地を与えなさい。全て畿内から四方の国まで、農繁期の月には、すぐに田の仕事に励め。美味い物や酒を食わすな。私利私欲がない使者を選んで、畿内に告げよ。四方の諸国の国造達にも、行いの正しい人を選んで、詔勅のとおりに義務をつとめはたせ」と詔勅した。】とある。


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