2020年10月23日金曜日

最終兵器の目 孝徳天皇 大化8

  今回も分量が多く、原文と翻訳は後回しにして検証を先に行う。

この事件は590年崇峻天皇三年「大伴狛夫人・・・同時出家」が590年ではなくて検証したところ舒明3年の631年に夫人が出家した夫の大伴狛と、舒明天皇即位前紀「即遣三國王櫻井臣和慈古二人」の記事の恐らく646年から白雉元年「新羅侍學士等而至中庭使三國公麻呂」の652年まで登場する三国公と斉明天皇四年「左大臣巨勢徳大臣薨」早ければ658年遅いと664年に薨去した巨勢左大臣が出現しているので3人が重なりそうな649年頃の事件としても良いようだ。

ところで、蘇我倉山田麻呂大臣・蘇我大臣・蘇我山田大臣といろいろ呼び方を変えているけれど、石川の記述が無く、皇極天皇四年に「蘇我倉山田石川麻呂臣爲右大臣」とフルネームがあるが大化元年「次妃蘇我山田石川麻呂大臣女曰乳娘」、天智天皇七年「蘇我山田石川麻呂大臣女曰遠智娘」と「倉」が無くなっている。

「倉」というのは敏達天皇前紀「渟中倉太珠敷天皇」、崇峻天皇前紀「宮於倉梯」、崇峻天皇五年 「葬天皇于倉梯岡陵」と敏達天皇が生まれ宮を置き葬られた場所で、敏達天皇は稲目の内容が含まれ「渟中倉太珠敷」は稲目の役職名と考えられて、物部目天皇が倉の地で統治し欽明天皇の子たちの一部はそこで生まれた稲目の兄弟達であると考えられる。

『古事記』に「皇娶檜隈天皇之御子石比賣命生・・・娶其弟小石比賣命生御子上王・・・又娶春日之日爪臣之女糠子郎女生御子春日山田郎女次麻呂古王次宗賀之倉王」と皇后の妹の子は上王で春日臣の娘の子が宗賀之倉王であるが、『日本書紀』では欽明天皇二年「皇后弟曰稚綾姫皇女是生石上皇子次有皇后弟曰日影皇女是生倉皇子」で『舊事本紀』も「皇后弟日稚綾姬皇女生一男石上皇子次妃皇后弟日影皇女生倉皇子」おなじである。

すなわち、『古事記』の倉王と『日本書紀』の倉皇子の二人のがいて、『古事記』の倉王は推古天皇の後継で活躍した、蘇我倉大臣と664年の入鹿暗殺時の、蘇我山田石川麻呂すなわち山田で生まれた襲名した倉王で、皇極天皇元年に「息長山田公奉誄日嗣」と『日本書紀』の息長足日廣額天皇の周辺人物が山田生まれを名乗り、敏達天皇十三年「馬子宿禰亦於石川宅脩治佛殿」と石川の土地は馬子の邸宅である。

すなわち、同じ人物を蘇我氏から見たか、物部氏から見たかによって異なり、そして、この項の事件は天智天皇が同じ人物を記述した文章なのである。

ここで、『日本書紀』と『舊事本紀』の記述時期を検証すると、『舊事本紀』には「孫物部馬古連公 目大連之子此連公難波朝御世授大華上氏(?)大刀賜食」と大化五年二月「制冠十九階」の649年以降も記述され、「孫内大紫位物部雄君連公・・・飛鳥浄御原宮御宇天皇御世賜氏上内大紫冠位奉齋神宮」、「十七世孫物部連公麻侶馬古連公之子此連公淨御原朝御世天下万姓改定八色之日改連公賜物部朝臣姓同御世改賜石上朝臣姓」と石上朝臣賜姓まで記述される。

したがって、『日本書紀』朱鳥元年「次直廣參石上朝臣麻呂誄法官事」と直廣參位が記述されないので685年以前に記述されていて、『舊事本紀』は『日本書紀』の舒明天皇までの内容を参照して記述されている。

『日本書紀』慶長版は

三月乙巳朔辛酉阿倍大臣薨天皇幸朱雀門舉哀而慟皇祖母尊皇太子等及諸公卿悉隨哀哭戊辰蘇我臣日向譖倉山田大臣於皇太子曰僕之異母兄麻呂伺皇太子遊於海濱而將害之將反其不久皇太子信之天皇使大伴狛連三國麻呂公穗積嚙臣於蘇我倉山田麻呂大臣所而問反之虛實大臣荅曰被問之報僕面當陳天皇之所天皇更遣三國麻呂公穗積嚙臣審其反狀麻呂大臣亦如前荅天皇乃將興軍圍大臣宅大臣乃將二子法師與赤猪自茅渟道逃向於倭國境大臣長子興志先是在倭營造其寺今忽聞父逃來之事迎於今來大槻近就前行入寺顧謂大臣曰興志請自直進逆拒來軍大臣不許焉是夜興志意欲焼宮猶聚士卒已巳大臣謂長子興志曰汝愛身乎興志對曰不愛也大臣仍陳說於山田寺衆僧及長子興志與數十人曰大爲人臣者安構逆於君何失孝於父凡此伽藍者元非自身故造奉爲天皇誓作今我見譖身刺而恐横誅聊望黃泉尚懷忠退所以來寺使易終時言畢開佛殿之戸仰發誓曰願我生々世々不怨君王誓訖自經而死妻子殉死者八是日以大伴狛連與蘇我日向臣爲將領衆使追大臣將軍大伴連等及到黒山土師連身采女臣使主麻呂從山田寺馳來告曰蘇我大臣既與三男一女倶自經死由是將軍等從丹比坂歸庚午山田大臣之妻子及隨身者自經死者衆穗積臣嚙捉聚大臣伴黨田口臣筑紫等者枷反縛是夕木臣麻呂蘇我臣日向穗積臣嚙以軍圍寺喚物部二田造塩使斬大臣之頭於是二田塩仍拔大刀刺舉其宍叱咤啼叫而始斬之甲戌坐蘇我山田大臣而被戮者田口臣筑紫耳梨道德髙田醜雄額田部湯坐連秦吾寺等凡十四人被絞者九人被流者十五人是月遣使者收山田大臣資財資財之中於好書上題皇太子書於重寶上題皇太子物使者還申所收之狀皇太子始知大臣心猶貞淨追生悔恥哀歎難休即拜日向臣於筑紫大宰帥世人相謂之曰是隱流乎皇太子妃蘇我造媛聞父大臣爲塩所斬傷心痛惋惡聞塩名所以近侍於造媛者諱稱塩名改曰堅塩造媛遂因傷心而致死焉皇太子聞造媛徂逝愴然傷怛哀(?)極甚於是野中川原史滿進而奉歌々曰耶麻鵝播爾烏志賦拖都威底陀虞毗預倶陀虞陛屢伊慕乎多例柯威爾雞武模騰渠等爾婆那播左該騰摸那爾騰柯母于都倶之伊母我磨陀左枳涅渠農皇太子慨然頽歎褒美曰善矣悲矣乃授御琴而使唱賜絹四匹布二十端綿二褁夏四月乙卯朔甲午於小紫巨勢德陀古臣授大紫爲左大臣於小紫大伴長德連授大紫爲右大臣五月癸卯朔遣小華下三輪君色夫大山上掃部連角麻呂等於新羅是歲新羅王遣沙㖨部沙食金多遂爲質從者三十人

【三月の朔が乙巳の辛酉の日に、阿倍の大臣が薨じた。天皇は、朱雀門に行幸して、死者に哀悼の意を表して悼んだ。皇祖母の尊と皇太子達及び諸々の高官が、残らず一緒に哀悼した。戊辰の日に、蘇我の臣の日向が倉山田の大臣を皇太子に「私の異母兄の麻呂が、皇太子の海辺で遊んでいるの隙をねっらって、殺害しようとしている。反乱はそんなに遅くは無い」と偽った。皇太子は信じて天皇が、大伴の狛の連と三国の麻呂の公と穗積の噛の臣を蘇我の倉の山田の麻呂の大臣の所に派遣して、反逆の真否を問いただした。大臣は「問いかけの返事は、私が天皇の面前で言います」と答えた。天皇は、また三国の麻呂の公・穗積の噛の臣を派遣して、その反逆の状況を詳しく判断させた。麻呂の大臣は、また以前のとおりの答だった。天皇は、それで軍を集めて、大臣の邸宅を囲んだ。大臣は、それで法師と赤猪の二人の子を連れて、茅渟の道から、逃げて倭国の境に向かった。大臣の長子の興志は、これより前に倭に居て、そこに寺を建立していた。今、急に父が逃げて来たと聞いて、今来の大槻まで迎え出て、近くで先頭に立って寺に入った。振り返って大臣に「興志は、私が直ぐに進軍してやってくる軍を逆らい防ぎたい」と言った。大臣は許さなかった。この夜、興志は都に撃って出て焼こうと思ってより多くの兵士を集めた。己巳の日に、大臣は、長子の興志に「命が惜しいか」と言った。興志は「惜しくは無い」と答えた。大臣はそれで山田寺の僧達及び長子の興志と数十人に「人は臣下となったら、どうして主君に逆らって構えられるのか。そんなことをしたら父への孝行が成り立たない。全て、この伽藍は、元々自身の為に作ったのではない。天皇に奉公すると誓って造った。今、私は身刺に騙されて、汚名を着て誅殺されることを恐れている。今願うのは、あの世に行っても忠誠心を持つつもりで死にたい。寺に遣って来た理由は、安らかに死の時を迎えたいからだ」と述べ説いた。言い終わって、佛殿の戸を開いて、空を仰いで「お願いします。私が何度生まれ変わっても君主を恨まないように」と誓いを立てた。誓い終わって、頚を括って自殺した。妻子など八人が殉死した。この日に、大伴の狛の連と蘇我の日向の臣とを将軍に、兵士を率いて大臣を追わせた。將軍の大伴の連達は、黒山に着いて、土師の連の身と采女の臣の使主麻呂が、山田寺から、馳せ参じて「もう、蘇我の大臣は、三人の男子と一人の女子と、一緒に頚を括って自殺した」と告げた。これで、將軍達は、丹比の坂から帰った。庚午の日に、山田の大臣の妻子と護衛の者が、頚を括って多くの者が自殺した。穗積の臣の噛は、大臣の中間の田口の臣の筑紫達を捕え集めて、拘束して後ろ手に縛った。この夕方に、木の臣の麻呂と蘇我の臣の日向と穗積の臣の噛が、軍で寺を囲んだ。物部の二田の造の鹽を呼んで、大臣を斬首した。そこで、二田の鹽は、それから大刀を抜いて、その切った物を刺して掲げて、斬ったぞと大声でうれし泣きした。甲戌の日に、蘇我の山田の大臣に連座して、殺された者は、田口の臣の筑紫と耳梨の道徳と高田の醜雄と額田部の湯坐の連と秦の吾寺達の全てで十四人だった。絞められた者九人、流罪が十五人だった。この月に、使者を派遣して、山田の大臣の財産を没収した。財産の中で、好書の上には、皇太子の書物と記した。重要な宝の上には、皇太子の物と記した。使者は、帰って没収した状況を上申した。皇太子は、はじめて大臣の心根が節操を持ち一つの濁りも無いことを知って、つくづく悔い恥じて、止めなく嘆き悲しんだ。それで日向臣を筑紫の大宰の長官にした。世の人は「本当は流刑にしたのだろう」と噂した。皇太子の妃の蘇我の造の媛は、父の大臣が、鹽の為に斬られたと聞いて、悲しみに傷つきとても恨んで、鹽の名聞くだけで嫌がった。それで、造媛の近習が、鹽の名を言うのを嫌って、改めて堅鹽と言った。造媛は、とうとう心痛で死んでしまった。皇太子は、造媛が死んだと聞いて、悲しみに心をいためて、とても悲しんで泣いた。そこで、野中の川原の史の滿が進み出て歌を奏上した。歌()。皇太子は崩れ落ちるように悲しんで、「いい歌だ。悲しいな」と褒めた。それで琴を授けて唱わせた。絹を四匹と布を二十端と綿二袋を与えた。夏四月の朔が乙卯の甲午の日に、小紫の巨勢の徳陀古の臣に、大紫を授けて、左の大臣とした。小紫の大伴の長徳の連に、大紫を授けて、右の大臣とした。五月の癸卯が朔の日に、小花下の三輪の君の色夫と大山上の掃部の連の角麻呂達を新羅に派遣した。この歳に、新羅の王、沙㖨部の沙食の金多遂を派遣して人質とした。従者が三十人いた。】とあり、夏四月乙卯朔は637年、五月癸卯朔は639年で、660年や662年の652年即位の舒明9年や11年に挿入しようとしたが冠位から巨勢徳陀記事に追加して649年に挿入されたようで、他は標準陰暦と合致する。



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