2020年10月26日月曜日

最終兵器の目 孝徳天皇 白雉1

  今回も白雉改元記事なので分量が多く、原文と翻訳は後回しにして検証を先に行う。

白雉元号は『新唐書』に「永徽初其王孝德即位改元曰白雉」、『宋史』に「白雉四年律師道照求法至中國從三藏僧玄奘受經律論當此土唐永徽四年也」と永徽元年650年が白雉元年、永徽四年653年が白雉4年と中国史書が検証しているが、『二中歴』に「常色五年丁未白雉九年壬子国々最勝会始行之白鳳廿三年辛酉」と白雉元年が652年で白鳳元年が661年で白雉年号が9年間となり、これがズレると元号ではなくなってしまう。

中国史書は『日本書紀』を記述した政権と国交があっ中国で官僚になった人物もいて『日本書紀』どおりでなくてはおかしく、また、1060年完成の『新唐書』は「永徽初」で永徽元年ではなく、永徽元年から数年間の幅を持ち、1345年完成の『宋史』が永徽初年と考えた可能性が有り、『二中歴』を記述した人物も3史書を知っているにもかかわらず、あえてこれらの元号を記述していて、より真実を内蔵していると思われる。

この記述では『論衡』の儒増篇第二六「周時天下太平越裳獻白雉倭人貢鬯草食白雉服鬯草不能除凶」や『魏書』「靈徵志」に麒麟から温泉まで吉兆を載せ赤雀・白鹿・白雉や三足烏等も記載され、『後漢書』永平十一年「是歲漅湖出黃金廬江太守以獻時麒麟白雉醴泉嘉禾所在出焉」も引用され、景行天皇四〇年「日本武尊化白鳥」、雄略天皇九年「解鞍秣馬眠之。其明旦赤駿變爲土馬」がここで記述された説話をもとに記述されたものと思われる。

以前、『日本書紀』舒明天皇三年「百濟王義慈入王子豐章爲質」記事は655年以降としたが、ここでは百済君すなわち百済王と呼んでいて豊章が王となったのは『三国史記』義慈王二十年「古王子扶餘豊嘗質於倭國者立之爲王」と660年でこの改元は白雉ではなく白鳳の改元と考えられ、661年の記事を650年に挿入したのである。

だから、天皇が味經宮に行って年賀の儀式に行ったのは、白鳳を建元した人物が斉明天皇では無く他の象徴的人物が改元したのであり、だから、天皇が変わっても白鳳元号は続いたのであり、『日本書紀』の天皇は首都の年号だ。

また、この改元の王は穴戸を祖先神が統治したと『書』の「文身國」の末裔、すなわち、俀国から倭国の祖地粕屋を奪った倭国の王、蘇我氏の王だ。

『日本書紀』慶長版は

白雉元年春正月辛丑朔車駕幸味經宮觀賀正禮是日車駕還宮二月庚午朔戊寅穴戸國司草壁連醜經獻白雉曰國造首之同族贄正月九日於麻山獲焉於是問諸百濟君曰後漢明帝永平十一年白雉在所見焉云云又問沙門等沙門對曰耳未所聞目所未覩冝赦天下使悅民心道登法師曰昔髙麗欲營伽藍無地不覽便於一所白鹿徐行遂於此地營造伽藍名白鹿薗寺住持佛法又白雀見于一寺田莊國人僉曰休祥又遣大唐使者持死三足烏來國人亦曰休祥斯等雖微尚謂祥物況復白雉僧旻法師曰此謂伾祥足爲希物伏聞王者旁流四表則白雉見又王者祭祀不相踰宴食衣服有節則至又王者清素則山出白雉又王者仁聖則見周成王時越裳氏來獻白雉曰吾聞國之黃耈曰久矣無別風(?)雨江海不波溢三年於茲矣意中國有聖人乎盍往朝之故重三譯而至又晉武帝咸寧元年見松滋是即休祥可赦天下是以白雉使放于園甲申朝庭隊仗如元會儀左右大臣百官人等爲四列於紫門外以粟田臣飯(?)等四人使執雉輿而在前去左右大臣乃率百官及百濟君豊璋其弟塞城忠勝髙麗侍醫毛治新羅侍學士等而至中庭使三國公麻呂猪名公髙見三輪君甕穗紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前時左右大臣就執輿前頭伊勢王三國公麻呂倉臣小屎執輿後頭置於御座之前天皇即召皇太子共執而觀皇太子退而再拜使巨勢大臣奉賀曰公卿百官人等奉賀陛下以清平德治天下之故爰有白雉自西方出乃是陛下及至千秋萬歲淨治四方大八嶋公卿百官及諸百姓等冀磬忠誠勤將事奉賀訖再拜詔曰聖王出世治天下時天則應之示其祥瑞曩者西土之君周成王世與漢明帝時白雉爰見我日本國譽田天皇之世白烏樔宮大鷦鷯帝之時龍馬西見是以自古迄今祥瑞時見以應有德其類多矣所謂鳳凰騏驎白雉白烏若斯鳥獸及于草木有苻應者皆是天地所生休祥嘉瑞也夫明聖之君獲斯祥瑞適其冝也朕惟虛薄何以享斯蓋此專由扶翼公卿臣連伴造國造等各盡丹誠奉遵制度之所致也是故始於公卿及百官等以清白意敬奉神祇並受休祥令榮天下又詔曰四方諸國郡等由天委付之故朕倊臨而御寓今我親神祖之所知穴戸國中有此嘉瑞所以大赦天下改元白雉仍禁放鷹於穴戸堺賜公卿大夫以下至于令史各有差於是褒美國司草壁連醜經授大山幷大給各有差復穴戸三年調役夏四月新羅遣使貢調冬十月爲入宮地所壞丘墓及被遷人者賜物各有差即遣將作大匠荒田井直比羅夫立宮堺標是月始造丈六繡像侠侍八部等四十六像是歲漢山口直大口奉詔刻千佛像遣倭漢直縣白髮部連鐙難波吉士胡床於安藝國使造百濟舶二隻

【白雉元年の春正月の辛丑が朔の日に、天皇が車に乗って味経の宮に行幸して、賀正の儀式を観た。この日に、天皇が車に乗って宮に帰った。二月の朔が庚午の戊寅の日に、穴戸の国司の草壁の連の醜経が、白雉を献上して「国造首の同族の贄が、正月の九日の日に、麻の山で捕まえた」と言った。それで、百済君にいろいろ聞いた。百済君が「後漢の明帝の永平十一年に、白雉をある所で見つけた」云云と言った。また、修行僧達に聞いた。修行僧達が「聞いたことも見たことも無い。天下に恩赦を発令して、人々を喜ばせるべきだ」と答えた。道登法師が「昔、高麗が伽藍を建立しようとするのに、土地を見ないで決めません。それである所に、白鹿がゆっくり歩いて行った。それでここに、伽藍を建立した。白鹿園寺と名付けて、仏の教えをかたく守った。また、白雀を、ある寺の所有する田で見つけた。国中の人が『よい前兆だ』と言った。また、大唐に派遣した使者が、死んだ三足の烏を持ち帰った。国の人がまた『よい前兆だ』と言った。こんな些細なことでも目出度い物と言うのだから白雉なら当然目出度い」と言った。僧旻法師が「大変良い前兆と言って、とても珍しいものと十分言える。聞いて納得したが、王道で四方全てまでを治めると、白雉を見る。また、王道が神を祀ってもお互いに領分を越えず、宴の食物や衣服は節度を持つ。また王が慎ましく美しいときは、山に白雉が出る。また、王が思いやりを持った天子だと見る。また、周の成王の時に、越裳氏が来て白雉を献上して『私が聞いたところ、国の若者も年寄りも長らくとりわけ風も吹かず長雨も無く、大河や海で溢水が無く、三年経った。それはきっと、中国には聖人がいるからだ。どうして朝廷に出向いて仕えずにいれましょう。それで、三つの通訳を重ねて遣って来た』と言った。また、晋の武帝の咸寧元年に、松滋がこれは吉祥だ。天下に恩赦を発令すべきだ」と言ったと知っている。そこで白雉を、庭園に放った。甲申の日に、朝庭の護衛は元旦の儀礼のようだった。左右大臣と役人達が、四列で庭園のしばを編んでつくった門の外に並んだ。粟田の臣飯蟲達四人で、雉を輿に乗せて、皆の前を通り過ぎた。左右大臣はそれで役人及び百済の君の豊璋とその弟の塞城と忠勝と高麗の侍医の毛治と新羅の教師達を率いて、中庭に着いた。三国の公の麻呂と猪名の公の高見と三輪の君の甕穗と紀の臣の乎麻呂岐太の四人が代って雉を輿に乗せて、殿の前に進み出た。その時に、左右の大臣が輿を手にして前方を担いで、伊勢の王と三国の公の麻呂と倉の臣の小屎が、輿の後を担いで、天皇の座席の前に置いた。天皇は、それで皇太子を呼んで、一緒に手に取って見た。皇太子は、退去してもう一でお辞儀した。巨勢の大臣が「公卿や役人達がお祝いして、陛下は、清らかに統治する徳で、天下を治めたため、白雉が、西方で出現した。それでこれは、陛下が千年も万年も、けがれなくあまねく大八嶋を統治して、公卿や役人と諸々の百姓達が、忠義を持って誠実に駆けつけて遣って来て勤しんで仕えてほしい」とお祝いした。お祝いしてからもう一でお辞儀をした。「徳を持った君主がこの世にあらわれて、天下を治める時に、天が呼応して、その目出度い前触れを見せる。昔、西方の国の君主で、周の成王の時と、漢の明帝の時に、白雉をその国で見た。我が日本国の譽田の天皇の時に、白烏が宮に巣を作った。大鷦鷯の帝の時に、龍馬を西で見た。それで、昔から今までに、良い兆しが時々目られて、徳が有る王に答えたようなことは多くある。所謂、鳳凰や麒麟や白雉や白烏のような鳥獣から、草木まで、天からの徴が有るのは、みなこれは、天地が生まれた頃からの、吉祥・吉兆だ。それは、知徳のすぐれ君主がこの吉兆を得たのは、本当に天の思し召しだ。私は騙されやすくて軽薄だ。どうしてこのようなものを受け取ったのかと考えたら、一所懸命に助けてくれた公卿や臣や連や伴造や国造達が、夫々真心を尽くして、決まりを聞いて従ったからだ。このために、公卿から、役人達まで、けがれない気持ちで、神祇を敬拝して、一緒に良い兆しを受けて、天下を繁栄させよう」と詔勅した。また、「四方の諸国郡達は、天が委ねて授けたのだから、私は全てを見渡して少しの間、国を預かる。今、我が祖先神が統治した、穴戸の国の中に、この吉兆が有った。それで、天下に大赦を発令する。白雉元年に改める」と詔勅した。それで鷹を穴戸の境界に放つことを禁じ、公卿高官より下から、事務官までに夫々差をつけて下賜物が有った。そこで、国司の草壁の連の醜經に褒美として大山位を授けた。それと併せて多くの手当を与えた。穴戸での三年の税と労役を免除した。夏四月に、新羅が、使者を派遣して貢物を差し出した。冬十月に、宮域に編入されて墓を壊したり遷された者に差をつけて物を与えた。それで木工の棟梁頭の荒田井の直の比羅夫を派遣して、宮の堺の標識を立てた。この月に、はじめて丈六の刺繍の像と本尊の両脇の像と天と竜と夜叉と乾闥婆と阿修羅と迦楼羅と緊那羅と摩睺羅伽の天竜八部衆等の三十六像を造った。この歳、漢の山口の直の大口が、詔勅を受けて千佛の像を刻んだ。倭の漢の直の縣と白髮部の連の鐙と難波の吉士の胡床を、安芸の国に派遣して、百済の大船二隻を造らせた。】とあり、標準陰暦と合致する。

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