2020年10月28日水曜日

最終兵器の目 孝徳天皇 白雉2

 『日本書紀』慶長版は

二年春三月甲午朔丁未丈六繡像等成戊申皇祖母尊請十師等設齋六月百濟新羅遣使貢調獻物冬十二月晦於味經宮請二千一百餘僧尼使讀一切經是夕燃二千七百餘燈於朝庭內使讀安宅土側等經於是天皇從於大郡遷居新宮号曰難波長柄豊𥔎宮是歳新羅貢調使知万沙飡等著唐國服泊于筑紫朝庭惡恣移俗訶嘖追還于時巨勢大臣奏請之曰方今不伐新羅於後必當有悔其伐之狀不湏舉力自難波津至于筑紫海裏相接浮盈艫舳召新羅問其罪者可易得焉三年春正月已未朔元日禮訖車駕幸大郡宮自正月至是月班田既訖凡田長三十步爲段十段爲町三月戊午朔丙寅車駕還宮夏四月戊子朔壬寅請沙門惠隱於內裏使講無量壽經以沙門惠資爲論議者以沙門一千爲作聽衆丁未罷講自於此日初連雨水至于九日損壞宅屋傷害田苗人及牛馬溺死者衆是月造戸籍凡五十戸爲里毎里長一人凢戸主皆以家長爲之凡戸皆五家相保一人爲長以相撿察新羅百濟遣使貢調獻物秋九月造宮巳訖其宮殿之狀不可殫論冬十二月皆請天下僧尼於內裏設齋大捨燃燈

【二年の春三月の朔が甲午の丁未の日に、丈六の繍像等が完成した。戊申の日に、皇祖母が、十師達に食事を施す法会を開くことを頼んだ。夏六月に、百済と新羅が、使者を派遣して年貢を献上した。冬十二月の晦の日に、味経の宮に、二千一百余の僧尼に、一切経の読経を頼んだ。この夕に、二千七百余の燈明を朝廷の庭の中に灯して、安宅経と土側経等の読経させた。そこで、天皇は、大郡から、新しい宮に遷った。難波の長柄の豊碕の宮と名付けた。この歳に、新羅の年貢を納める使者の知萬沙飡達が、唐の国の服を着て、筑紫に停泊した。朝庭は、勝手気ままに風俗を変えたことを嫌って、責め立てて追い返した。その時に、巨勢の大臣が、「今すぐ新羅を伐たなければ、あとできっと後悔する。その討つ方法は全勢力は使ってはならない。難波の津から、筑紫の海の中まで、 船尾と船首を連ねて隙が無いほど浮かべて、新羅を呼びつけて、罪を問えば、簡単に目的が果たせます」と裁可を求めた。三年の春正月の己未が朔の日に、年の始めの儀式が終わって、駕籠の車に乗って大郡の宮に行幸した。正月からこの月までに、人々へ均等に分け終わった。全ての田は、長さ三十歩で段として、十段を町とした。三月の朔が戊午の丙寅の日に、駕籠の車に乗って宮に帰った。夏四月の朔が戊子の壬寅の日に、修行僧の惠隱を内裏に呼んで、無量寿経を教えてもらった。修行僧の惠資と問答をさせ、それを修行僧の千人の前で行い、丁未の日に、講義が終わった。この日から、雨が九日間降り続いて、家屋を損壊して苗が壊滅した。人や牛馬がたくさんおぼれ死んだ。この月に、戸籍を作った。おしなべて、五十戸で里とし里毎に頭を一人、戸主には、皆、家長がなり、一戸は皆、五家を隣組として一人を代表者とし互いに見張り合った。新羅と百済が使者を派遣して年貢を献上した。秋九月に、宮を造り終わった。その宮殿の威容は、言い尽くせないほど立派だった。冬十二月の晦に、天下の僧や尼を内裏に集めて 愛憎の心を捨てる斎食を施す法会を開かせ燈明を灯た。】とあり、夏四月戊子朔は4月2日で3月が小の月で、大の月なら標準陰暦と合致するが、これまで2日が朔とするより他の年を考えた方が理に適った日付の事が多く、他を探すと621年の推古天皇二九年にあたり、629年元年の推古天皇29年、すなわち657年のことだった可能性が有り、その他は標準陰暦と合致する。

651年に新羅が唐様式の正装で来ることはあまり考えられず、『三国史記』654年眞德王八年三月の「贈開府儀同三司賜綵段三百」、654年武烈王元年五月「唐遣使持節備禮冊命爲開府儀同三司新羅王王遣使入唐表謝 」と唐の官位を得た654年以降で、660年斉明天皇六年「新羅春秋智不得願於内臣盖金故。亦使於唐捨俗衣冠。請媚於天子」と同じことを記述している。

倭国の同盟国百済や高句麗に新羅を攻撃させ、660年武烈王七年三月「唐高宗命左武衛大將軍蘇定方爲神丘道行軍大摠管金仁問爲副大摠管帥左驍衛將軍劉伯英等水陸十三萬??伐百濟勅王爲嵎夷道行軍摠管使將兵爲之聲援」、義慈王二十年「如月新者微也意者國家盛而新羅寖微者乎王喜高宗詔左武衛大將軍蘇定方爲神丘道行軍大摠管 率左驍衛將軍劉伯英·右武衛將軍馮士貴左驍衛將軍龐孝公統兵十三萬以來征兼以新羅王金春秋爲嵎夷道行軍摠管 將其國兵與之合勢蘇定方引軍」と新羅と百済の記述が合致し、『舊唐書』新羅「顯慶五年命左武衛大將軍蘇定方爲熊津道大總管統水陸十萬仍令春秋爲嵎夷道行軍總管與定方討平百濟俘其王扶餘義慈」、百濟「顯慶五年命左衛大將軍蘇定方統兵討之大破其國」と唐の記述も合致している。

推古天皇十六年に「是時遣於唐國學生・・・志賀漢人惠隱」、舒明天皇十一年「大唐學問僧惠隱」、舒明天皇十二年「大設齋因以請惠隱僧令説旡量壽經」と推古16年が644年、舒明11年が662年、舒明12年が663年で、「夏四月戊子朔」を657年に推定した論理が正当化され、俀国記事の遣隋使に644年の遣唐使を「是時」以降に付け加えたことを意味し、もしかしたらもっと後の、次項で述べる653年白雉四年の「發遣大唐大使小山上吉士長丹副使小乙上吉士駒學問僧」の時の可能性もある。

すなわち、「是歳」記事は659年の記事と考えられ、さらに、657年に推定した法会記事に続く大雨も『三国史記』の660年義慈王二十年五月「風雨暴至震天王道讓二寺塔又震白石寺講堂玄雲如龍東西相鬪於空中」、661年武烈王八年五月「至誠告天忽有大星落於賊營又雷雨以震」と自然災害が続いていて、この頃、異常気象が続いて、白鳳2・3年の記事の可能性がある。

そして、大化2年の班田収授法説明記事が重複して記述され、次に記述されるのが持統六年「遣班田大夫等於四畿内」記述されるので、大化2年の班田収授法開始は696年での可能性が有る。

白雉記事を記述したのが俀国の王朝の天武天皇か倭国・秦王国の王朝の元明天皇かによって、この白雉記事の評価が全く異なる。


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