2020年10月7日水曜日

最終兵器の目 孝徳天皇 大化1

  『日本書紀』慶長版は

「大化元年秋七月丁卯朔戊辰立息長足日廣額天皇女間人皇女爲皇后立二妃元妃阿倍倉梯麻呂大臣女曰小足媛生有間皇子次妃蘇我山田石川麻呂大臣女曰乳娘丙子髙麗百濟新羅並遣使進調百濟調進兼領任那使任那調唯百濟大使佐平縁福遇病留津館而不入於京巨勢德大臣詔於髙麗使曰明神御宇日本天皇詔旨天皇所遣之使與髙麗神子奉遣之使既往短而將來長是故可以温和之心相繼往來而已又詔於百濟使曰明神御宇日本天皇詔旨始我遠皇祖之世以百濟國爲內官家譬如三絞之綱中間以任那國属賜百濟後遣三輪栗隈君東人觀察任那國(?)是故百濟王隨勅悉示其堺而調有闕由是却還其調任那所出物者天皇之所明覧夫自今以後可具題國與所出調汝佐平等不易面來早湏明報今重遣三輪君東人馬飼造又勅可送遣鬼部率意斯妻子等」

【大化元年の秋七月の朔が丁卯の戊辰の日に、息長の足日の廣額の天皇の娘の間人皇女を皇后に立てた。二人の妃がいた。はじめの妃は、阿倍の倉梯麻呂の大臣の娘で小足媛という。有間の皇子を生んだ。次の妃が、蘇我の山田の石川麻呂の大臣の娘で乳娘といった。丙子の日に、高麗と百済と新羅が並行して、使者を派遣して年貢を進上した。百済の年貢の使者は、任那の使者を兼ねて、任那の年貢を進上した。ただし百済の大使の佐平の緑福だけは、病を患って津の館に留って、京に入らなかった。巨勢の徳の大臣は、高麗の使に「神の言葉を示して日本を統治する天皇の詔勅の内容に、天皇が派遣する使者と、高麗の神の子の王が奉遣する使者と、これまでは短い付き合いだったが、これからは長く付き合いたい。そのため、穏やかな気持ちで、共に長く行き来したい」と詔勅した。また、百済の使者に「神の言葉を示して日本を統治する天皇の詔勅の内容に、はじめ、私の遠い皇祖の世に、百済国を、内の宮家にしたことは、例えれば三本でよった綱のようだ。間に、任那国を、百済に任せて与えた。後で、三輪の栗隈の君の東人を派遣して、任那国の境界を調べさせた。このため、百済の王は、詔勅どおりに、残らず境界を示した。それなのに年貢が足りないことが有った。それで、その年貢をつき返した。任那の献上した物は、天皇が良く御覧になった。今以後は、詳しく国とその献上する年貢を記録しなさい。おまえ達佐平は、相も変わらず顔も見せない。早く明確に報告しろ。今からもう一度、三輪の君の東人と馬飼の造を派遣する」と詔勅した。また「鬼部の達率の意斯の妻子達を送遣しなさい」と詔勅した。】とあり、標準陰暦と合致する。

もう一度家系を確認しておくと、『古事記』の「娶息長真手王之女比呂比賣命生御子忍坂日子人太子」と敏達天皇は息長氏の婿でその皇子が「日子人太子娶庶妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」と息長氏の皇子の子が天皇になり、それが息長足日廣額で息長の天皇名と筋が良く通っていて、『日本書紀』「大臣及群卿共以天皇之璽印獻於田村皇子」と田村王の子の田村皇子が皇位を継いでこれも筋が通る。

話が通らないのが『藤氏家伝』の「十四年皇太子攝政」でこれは斉明天皇七年七月丁巳「皇太子素服稱制」の記事だが、年数が矛盾して、『古事記』も「崗本宮治天下之天皇」の皇后の寶皇女が記述されず「比賣命次寶王亦名糠代比賣」と田村王と同じ亦の名で、『古事記』「娶庶妹玄王生御子山代王次笠縫王」と『日本書紀』の「櫻井皇女」や「田眼皇女是嫁於息長足日廣額天皇」と田眼皇女を寶王に充て『古事記』では「豊御食炊屋比賣命生御子・・・多米王櫻井之玄王」と充てている。

さらに、「崗本宮治天下之天皇」の母は彦人の庶妹の「庶妹田村王亦名糠代比賣」と糠代比賣すなわち「寶王亦名糠代比賣」で、『船王後墓誌』に「等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲勅賜官位大仁品為第三殞亡於阿須迦天皇之末 歳次辛丑」と推古天皇・飛鳥天皇(舒明天皇)に仕え641年に舒明天皇が崩じ、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』に「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年」と646年に「池邊大宮治天下天皇」が在位していた。

そして、647年から新しい天皇が即位し、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』に「小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉」と池邊天皇の妻で後に小治田天皇となる人物と池邊天皇の皇子で小治田天皇の皇太子が667年に奉納し、この皇太子は天智天皇で舒明天皇から池邊天皇に逆戻りと、もともと、敏達天皇の後で推古天皇の前紀に敏達死後5年で推古天皇に即位しているので用明天皇は即位していない。

そして、皇祖母は孝徳天皇前紀「奉號於豐財天皇曰皇祖母尊以中大兄爲皇太子」と皇極天皇が皇祖母で天智天皇を皇太子にしたと記述し、大化二年「吉備嶋皇祖母處々貸稻」、斉明天皇元年「皇祖母尊即天皇位於飛鳥板盖宮」、皇極天皇二年「吉備嶋皇祖母命薨」と天智天皇三年「嶋皇祖母命薨」と同一記事で、皇極天皇は「茅渟王女也母曰吉備姫王」としている。

すなわち、皇極天皇は皇祖母と言っていたが、孝徳天皇を天皇にして天智天皇を皇太子にし、天智天皇即位3年すなわち「七年・・・皇太子即天皇位或本云六年歳次丁卯三月即位」ということは皇極天皇が再度皇祖母になったと言うことだ。

この皇極天皇は『野中寺銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』に「丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と666年に病気が重く仏像を造って、『薬師寺東塔の擦管』に「維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳建子之月以中宮不悆創此伽藍」と薬師寺伽藍を建立して680年に完成したと記述されている。

すなわち、646年に崩じた池邊天皇の皇后が「丁卯年仕奉」667年に像を奉納した中宮天皇で、この天皇は647年に即位してもう一人の舒明天皇の妻となったとすれば筋が通り、推古天皇の死んだ皇太子は彦人で、皇極天皇前紀の「茅渟王女也母曰吉備姫王」は『古事記』と『日本書紀』のギャップで茅渟王と皇極天皇が同じ世代なので、『古事記』は敏達天皇「娶漢王之妹大俣王生御子知奴王次妹桑田王」、『日本書紀』は斉明天皇前紀に「初嫡於橘豐日天皇之孫高向王而生漢皇子」が一世代上がって敏達天皇の孫の高向王で茅渟王を意味し、その子が漢皇子と母方の漢王の跡継ぎで、茅渟王が漢王に婿入りし、孝徳天皇も漢王の兄弟と考えられる。

そして、このギャップが「押坂彦人大兄皇子更名麻呂古皇子」と又の名で処理して用明天皇「葛城直磐村女廣子生一男一女男曰麻呂子皇子」と『古事記』に無い人物を記述している。

なお、ここの三韓記事は皇極天皇元年に「小徳巨勢臣徳太代大派皇子而誄」と小徳の冠位をもち641年頃の記事で、658年斉明天皇四年に「左大臣巨勢徳大臣薨」とよく合っている。


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