『日本書紀』慶長版は
「秋八月庚申朔癸酉詔曰原夫天地陰陽不使四時相亂惟此天地生乎萬物萬物之內人是最靈最靈之間聖爲人主見以聖主天皇則天御寓思人獲所暫不廢胸而始王之名名臣連伴造國造分其品部別彼名名復以其民品部交雜使居國縣遂使父子易姓兄弟異宗夫婦更互殊名一家五分六割由是爭競之訟盈國(?充)朝終不見治相亂弥盛粤以始於今之御寓天皇及臣連等所有品部冝悉皆罷爲國家民其假借王名爲伴造其襲據祖名爲臣連斯等深不悟情忽聞若是所宣當思祖名所借滅由是預宣使聽知朕所懷王者之兒相續御寓信知時帝與祖皇名不可見(?忌?忘)於世而以王名輕掛川野呼名百姓誠可畏焉凡王者之号將隨日月遠流祖子之名可共天地長往如是思故宣之始於祖子奉仕卿大夫臣連伴造氏氏人等咸可聽聞今以汝等使仕狀者改去舊職新設百官及著位階以官位敘今發遣國司幷彼國造可以奉聞去年付於朝集之政者隨前處分以收數田均給於民勿生彼我凡給田者其百姓家近接於田必先於近如此奉宣凢調賦者可收男身調凡仕丁者毎五十戸一人宜觀國々壃堺或書或啚持來奉示國懸之名來時將定國々可築堤地可穿溝所可墾田間均給使造當聞解此所宣九月遣小德髙向博士黒麻呂於新羅而使貢質遂罷任那之調是月天皇御蝦蟇行宮是歲越國之鼠晝夜相連向東移去三年春正月戊子朔壬寅射於朝庭是日髙麗新羅並遣使貢獻調賦夏四月丁巳朔壬午詔曰惟神我子應治故寄是以與天地之初君臨之國也自始治國皇祖之時天下大同都無彼此者也既而頃者始於神名天皇名々或別爲臣連之氏或別爲造等之色由是率土民心固執被此深生我汝各守名々又拙弱臣連伴造國造以彼爲姓神名王名逐自心之所歸妄付前前處處爰以神名王名爲人賂物之故入他奴婢穢汙清名遂即民心不整國政難治是故今者隨在天神属可治平之運使悟斯等而治國治民是先是後今日明日次而續詔然素頼天皇聖化而習舊俗之民未詔之間必當難待故始於皇子群臣及諸百姓將賜庸調」、【秋八月の朔が庚申の癸酉の日に、「物事のはじめは天地があってそこに万物の陰陽があり四季はみだれることが無い。それは天地が万物を生み万物の中に人がいて、人が一番不思議だ。一番不思議な人の中で聖人が人の主で、聖人が天皇を主とし、身を天に委ねて仮住まいして人を得ようと思って、しばらくは我慢強く王の名から名を始めて、臣と連と伴造と国造を分けて、その部民が名を別け、名がまた民となる。また、民と部民が、一緒になって国縣に居る。それで父子が姓を交換し、兄弟で氏が違い、夫婦も互に氏の名が違う。一家で五つに分れて六つに分割する。これで、争ってどちらが継ぐかを競って訴え、国でも朝廷でも事欠かない。とうとうおさまりがつかずに、互いに争って益々頻繁になった。それで、今の世に仮住まいされている天皇から臣や連達まで、領有している部民は残らずみなやめて、国家の民とする。それは王の名を使って伴造とし、初代の名を襲名して臣や連とする。この者達は、まったくわからず、急にこのように言われてきっと『先祖の名は借り物で消える』と思うだろう。だから予め申し述べて、私の考えを知らせた。王者の子が、仮住まいと深く信じて相続し、時には帝と皇祖の名が世の中で死んで見られなくなっても、王の名が河や野に気軽に名を付けて掲げれば、百姓はとても畏怖すべき事だ。おおよそ王者の名は、日月とともに遠い昔の事となるが、皇祖や子孫の名は、天地とともに長く続く。このように思って宣下した。皇祖の子達から、仕える高官や臣と連と伴造と氏の人達は、残らず聞け。今からお前達が仕える体制は、古い役職を捨て去って改め、新たな官吏を設けて、位階を付けて、官位を授ける。今から使者を派遣するから国司とその国造も一緒に聞きなさい。去年朝廷に集まって与えた政策は、前の決まりのままにする。調べて記帳した田を均等に人々に与え、あちらのだ、私のだ、などの争いが起こらないようにしなさい。おほよそ田を与えるのに、百姓の家の近くの田に纏められるなら、必ず近い田を先にしなさい。このような宣下を聞け。だいたい年貢は、男の人数で年貢を治めなさい。おおよそ雑役夫は、五十戸毎に一人だ。国々の境界を調べて、あるいは文書にしてあるいは絵をかいて、持参して示しなさい。国縣の名は、来た時に決める。国国の堤防を築かなければならないところ、水路を掘らなければならないところ、開墾するべき隙間は、差がなく与えて造らせなさい。この宣下をよく聞いて理解しなさい」と詔勅した。九月に、小徳の高向の博士の黒麻呂を新羅に派遣して、人質を貢上させ、ついに任那の年貢を止めた。この月に、天皇は、蝦蟇の行宮にいた。この歳に、越国の鼠が、昼から夜まで連なって、東に向って移って行った。三年の春正月の朔が戊子の壬寅の日に、朝庭で射礼をした。この日に、高麗と新羅が、一緒に使者を派遣して年貢を貢献した。夏四月の朔が丁巳の壬午の日に、「神の御心のまま我が子が統治しようとするのに応じることを名目に、天と地が別れてから、主君が国家を統治する国だ。はじめて国を治めた皇祖の時から、天下はみながあれこれと言わず一緒になった。それが今では、神の名はもとより天皇の名があるいは臣・連の氏に別れ、或いは造達のたぐいに別れた。それで、国の果ての人々の心それぞれを団結させて、強く各々の区別が出来て名を守った。また、弱い臣や連や伴造や国造は、その姓となる氏神の名や王の名を自分の心の拠り所として、簡単に本家についた。そこで神の名や王の名を、贈り物にするから下男下女になってきれいな名を汚してしまう。それで民心はまとまらなく、国を治めることを難しくする。そのため、今は、天神の御心のままに、平穏な世に出来るのでこれを解らせて、国を治め人々を治め、これを先に、これを後で、今日やる、明日やる、と次々に詔勅した。しかも、元々から天皇の徳に頼んで感化しようと、しきたりで動く人々がまだ詔勅を聞かないうちは、きっと待ち遠しいに違いない。それで、皇子や役人から始めて、諸々の百姓まで、必ず税を与えなさい」と詔勅した。】とあり、標準陰暦と合致する。
白雉五年「遣大唐押使大錦上高向史玄理或本云夏五月遣大唐押使大華下高玄理大使小錦下河邊臣麻呂」と大錦上は天智天皇三年「其冠有廿六階大織小織大縫小縫大紫小紫大錦上大錦中」の7番目、大化五年「八曰大華下」と8番目、大化三年「送博士小徳高向黒麻呂」と3番目の地位恐らく大徳が紫冠で6か7番目と考えられて、二人、玄理と黒麻呂がいて、654年頃に渡唐中に死んだ高向氏と天智天皇の時代に生きた高向氏で、冠位が異なる十年以上の差があり、ここでも長男が襲名しているようだ。
このように、襲名の説を述べてきたが、ここで「襲據祖名」と祖の名を襲名と記述していて、天皇も最初は王名を得てそれを「相續御寓」と襲名し、それが借り物の名と示し、王名は仮の名が変わるたびにまたそれを襲名したのである。
そして、とうとう、天皇も天智天皇から日本(倭)根子と借りの名ではなく真実の名、「天御寓」ではなく「日本御宇天皇」となって、臣や連ではなく、天武天皇十三年「更改諸氏之族姓作八色之姓以混天下萬姓一曰眞人二曰朝臣三曰宿禰四曰忌寸五曰道師六曰臣七曰連八曰稻置」と制度変更したが、664年天智天皇三年では「其大氏之氏上賜大刀小氏之氏上賜小刀其伴造等之氏上賜干楯弓矢亦定其民部家部」とある、氏姓が変わったわけではない。
また、ここの記事には、『日本書紀』が天照大神が主神としているはずが、「今者隨在天神」と天神が主神と述べ、皇極天皇四年「伊勢大神之使」から天武天皇二年「欲遣侍大來皇女于天照大神宮」まで大神が記述されなず、この間、大神を主神とする人たちと対立していた可能性があり、壬申の乱の勝者が大神を信奉していたと考えられる。
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