『日本書紀』慶長版は
「五年春正月戊申朔夜鼠向倭都而遷壬子以紫冠授中臣鎌足連増封若干戸二月遣大唐押使大錦上髙向史玄理大使小錦下河邊臣麻呂副使大山下藥師惠日判官大乙上書直麻呂宮首阿弥陀小乙上崗君冝置始連大伯小乙下中臣間人連老田邊史鳥等分乗二舩留連數月取新羅道泊于萊州遂到于京奉覲天子於是東宮監門郭丈舉悉問日本國之地里及國初之神名皆隨問而荅押使髙向玄理卒於大唐夏四月吐火羅國男二人女二人舍衞女一人被風流來于日向秋七月甲戌朔丁酉西海使吉士長丹等共百濟新羅送使泊于筑紫是月褒美西海使等奉對唐國天子多得文書寶物授小山上大使吉士長丹以少華下賜封二百戸賜姓爲吴氏授小乙下副使吉士駒以小山上冬十月癸卯朔皇太子聞天皇病疾乃奉皇祖母尊間人皇后幷率皇弟公卿等赴難波宮壬子天皇崩于正寢仍起殯於南庭以小山上百舌鳥土師連土德主殯宮之事十二月壬寅朔己酉葬于大坂磯長陵是日皇太子母奉皇祖母尊遷居倭河邊行宮老者語之曰鼠向倭都遷都之兆也是歳髙麗百濟新羅並遣使奉吊(?弔)」
【五年の春正月の戊申が朔の夜、鼠が倭の都に向って遷った。壬子の日に、紫冠を、中臣の鎌足の連に授けた。若干戸を加封した。二月、大唐に派遣した押使の大錦上の高向の史の玄理と、大使の小錦下の河邊の臣の麻呂と、副使の大山下の藥師の惠日と、判官の大乙上の書の直の麻呂と宮の首の阿彌陀と小乙上の岡の君の宜と置始の連の大伯と小乙下の中臣の間人の連の老と田邊の史の鳥達が、二船に別れて乗った。遊興にふけって数か月してから新羅の道を使って、莱州に停泊した。そして京について、天子に謁見した。そこで、東宮の護衛官の郭丈擧が、日本国の地理及び国の始祖神の名を聞いた。皆問われるままに答えた。押使の高向の玄理が、大唐で死んだ。夏四月に、吐火羅の国の男が二人と女が二人と、舍衞の国の女の一人が、嵐にあって日向に流れ着いた。秋七月の朔が甲戌の丁酉の日に、西海使の吉士の長丹達が、百済と新羅の送使と一緒に、筑紫に停泊した。この月に、西海使達が、唐国の天子に謁見して、多くの文書や宝物を貰ったことに対して褒賞で、小山上の大使の吉士の長丹に少花下を授けた。そして、増封二百戸と呉氏の姓を与えた。小乙上の副使の吉士の駒に、小山上を授けた。冬十月の癸卯が朔の日に、皇太子は、天皇が病気になったと聞いて、皇祖母の尊と間人の皇后を先頭に、一緒に皇弟と公卿達を率いて、難波宮に赴いた。壬子の日に、天皇が、正殿で崩じた。それで紫宸殿の前庭に喪屋を造った。小山上の百舌鳥の土師の連の土徳を、喪屋の責任者にした。十二月の朔が壬寅の己酉の日に、大坂の磯長の陵に葬った。この日に、皇太子が、皇祖母の尊を先頭にして、倭の河邊の行宮に遷った。老人が「鼠が倭の都に向ったのは、都を遷す兆しだった」と語った。この歳に、高麗と百濟と新羅が一緒に使者を派遣して、弔問した。】とあり、標準陰暦と合致する。
鎌足の褒賞が10年も経過して紫冠の授与だが、『藤氏家伝』では「崗本天皇御宇之初以良家子 簡授錦冠」と、この文は「後崗本天皇四年歳次乙巳」より前なのだが、『日本書紀』大化三年「制七色一十三階之冠・・・四曰錦冠有大小二階其大錦冠以大伯仙錦爲之」と錦冠は後崗本天皇の時に制定され、しかも、大化五年「制冠十九階・・・七曰大華上」と錦冠は廃止され、『藤氏家伝』に650年庚戌「仍拝大錦冠授内臣封二千戸」と無い大錦冠を授与され、「白鳳五年秋八月・・・大綿冠内臣中臣連功侔建内宿禰位未允民之望超拝紫冠増封八千戸」と若干戸とは言えない加封があった。
『日本書紀』を知っている、官位が正一位の太師の藤原仲麻呂が『藤氏家伝』を書いたのだから、『日本書紀』を知っているにもかかわらずことなるのは、自家にある資料と『日本書紀』を融合させたため矛盾が発生したと考えられ、実際は、「崗本天皇御宇之初」は647年十三階を作ってすぐに錦冠を授与され、天智天皇三年「冠有廿六階・・・大錦上」と650年では無く664年に大錦冠を授与され、さらに、紫冠を授与されたと考えられる。
唐派遣は664年より前、増封などで少花下を貰っているので、この少花下後に 冠位廿六階が制定され、唐に敵対した倭国への対応のための情報収集と処罰を言い渡したと考えられ、なぜなら、高向玄理は「橘豐日天皇之孫高向王」、「高向漢人玄理」と俀国の人物で恐らく父は小野妹子について行った学生だ。
そして、この推古天皇十六年「遣於唐國學生・・・高向漢人玄理」は舒明天皇十二年「大唐學問僧清安學生高向漢人玄理傳新羅而至之」と対になっていて、この推古天皇十六年は629年即位の推古天皇で16年は644年、舒明12年は634年元年の王の12年で645年に帰国して大化二年「遣小徳高向博士黒麻呂於新羅而使貢質」、大化三年「新羅遣上臣大阿飡金春秋等送博士小德髙向黒麻呂」と武烈王を人質にして送り返し、それが『三国史記』眞德王四年六月「遣使大唐告破百濟之衆王織錦作五言太平頌遣春秋子法敏以獻唐皇」から八年春三月「王薨」と650年から653年の間と考えられ、白雉2・3年のことだ。
すると、白雉5年は白雉末年の白雉9年の660年が一番妥当で、660年にとある岡本天皇が崩じ、661年に後岡本天皇が即位して、白鳳に改元したのだろうか。
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