『日本書紀』慶長版は
「十一月庚辰朔壬午留守官蘇我赤兄臣語有間皇子曰天皇所治政事有三失矣大起倉庫積聚民財一也長穿渠水損費公糧二也於舟載石運積爲丘三也有間皇子乃知赤兄之善己而欣然報荅之曰吾年始可用兵時矣甲申有間皇子向赤兄家登樓而謀夾膝自斷於是知相之不祥倶盟而止皇子歸而宿之是夜半赤兄遣物部朴井連鮪率造宮丁圍有間皇子於市經家便遣驛使奏天皇所戊子捉有間皇子與守君大石坂部連藥塩屋連鯯魚送紀温湯舍人新田部未(?米)麻呂從焉於是皇太子親問有間皇子曰何故謀反荅曰天與赤兄知吾全不解庚寅遣丹比小澤連國襲絞有間皇子於藤白坂是日斬塩屋連鯯魚舍人新田部連未麻呂於藤白坂鹽屋連鯯魚臨誅言願令右手作國寶器流守君大石於上毛野國坂合部藥於尾張國是歳越國守阿部引田臣比羅夫討肅愼獻生羆二羆皮七十(?挍)沙門智踰造指南車出雲國言於北海濱魚死而積厚三尺許其大如鮐雀彖針鱗々長數寸俗曰雀入於海化而爲魚名曰雀魚又西海使小花下阿曇連頰垂自百濟還言百濟伐新羅還時馬自行道於寺金堂晝夜勿息唯食草時止」
【十一月の朔が庚辰の壬午の日に、留守を任された蘇我の赤兄の臣が、有間の皇子に「天皇が治める政事には、三つの失敗が有る。大きな倉庫を建てて、人民の財産を積み上げたことが一つ。長い用水路を掘って、国家の食糧を浪費したことが二つ。舟に石を載せて、運び積み上げて丘にしたことが、三つ」と語った。有間の皇子は、それで赤兄が自分に好感を持っていることを知り、よろこんで「私は年が明けたら挙兵するときだと思っている」と答えた。甲申の日に、有間皇子は、赤兄の家に行って、たかどのに登って計略をたてていたら、膝で挟まれたところから自然に折れた。それで、悪い験と思って、みな計画を取りやめて、皇子は宿に帰った。この夜半に、赤兄が、物部の朴井の連の鮪を派遣して、宮を造る働き盛りの者を率いて、有間の皇子の市經の邸宅を取り囲んだ。それで急使を派遣して、天皇に奏上した。戊子の日に、有間の皇子と、守の君の大石と坂合部の連の藥と鹽屋の連の鯯魚とを捕えて、紀の温泉に送った。護衛の新田部の米麻呂が従者だ。そこで、皇太子は、自ら有間の皇子に「どうして謀反しようとした」と問いかけた。「天と赤兄がしている。私には全くわからない」と答えた。庚寅の日に、丹比の小澤の連の國襲を派遣して、有間の皇子を藤白の坂で絞殺した。この日に、鹽屋の連の鯯魚と護衛の新田部の連の米麻呂を藤白の坂で斬った。鹽屋の連の鯯魚は、誅殺されようとした時「お願いですからこの右手で国の宝となる物を創らせてほしい」と言った。守の君の大石を上毛野の国に、坂合部の藥を尾張国に流罪した。この歳に、越の国守の阿倍の引田の臣の比羅夫が、肅愼を討伐して、生きた羆二頭と羆の皮を七十枚を献上した。学問僧の智踰が、南を指さす人形を載せた車を造った。出雲の国が「北の海の浜に、魚の屍骸が打ち寄せられ、厚さが三尺ほどになった。その大きさはふぐで雀の嘴のような、針の鱗がある。鱗の長さ数寸で、みなは、『雀が海に入って、魚に化わった。雀魚と名付けたという』と言った」と言った。また、西海使の小花下の阿曇の連の頬垂は、百済から帰って、「百済、新羅を伐って帰ったが、その時に、馬が自分から寺の金堂を昼夜を問わず巡り歩き続けた。ただし草を食べる時だけ止めた」と言った。】とあり、十一月庚辰朔は11月2日で10月は小の月で大の月なら標準陰暦と合致するが、この干支が合致するのは632年と689年である。
しかし、持統十一年「八月乙丑朔天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」と文武天皇に皇位を譲位した日付も8月2日と7月が小の月で大の月なら標準陰暦と合致し、違う年の記事も考えられるが『続日本紀』に文武元年「八月甲子朔受禪即位」と標準陰暦と合致する日付が記述されていて、朔日の基準が違う資料があることを裏付けている。
その傾向が継体天皇以降多数出現し、『三国史記』は朔日を新羅は200年まで、百済は300年まで記述しないで、晦日を記述し、すなわち、月の見え始めを朔日とする資料が存在したことを意味し、倭国・俀国と畿内の差が考えられ、百済は朔日に日食を記述すると畿内と日干支が一致し、畿内政権基準になるが、新羅は日干支を書かなくなり8世紀になると標準陰暦と合致する。
俀国より西の百済や新羅の日干支を『三国史記』から抽出すると百済は温祚王六年「秋七月辛未晦」と紀元前13年は辛未が標準陰暦で8月朔日、多婁王四十六年「夏五月戊午晦」と西暦73年は標準陰暦で6月朔日戊午から始まり、晦日9件中1件、蓋婁王二十八年「春正月丙申晦」は癸亥、2月朔日が甲子で近辺に丙申が無くて評価できず、肖古王五年「春三月丙寅晦」が170年3月30日晦日丙寅で前月大の月、威德王三十九年「秋七月壬申晦」が592年7月29日晦日壬申で暦法が変わった可能性が有る。
但し、中国は『後漢書』・『三国志』から畿内と同じ日干支で『漢書』宣帝本始二年夏五月「建太學修郊祀定正朔」と朔日の指定方法が変わるまでは標準陰暦と全く合致しないが、それ以降は標準陰暦と合致し、中には合致しない日干支が有り、『晋書』には太元四年十二月己酉朔が間違いで「十二月乙卯朔天文志中作閏月己酉朔」と注釈を付記していて、とても計算で記述したとは思えない。
新羅は晦日記事が194年まで10件と787年以降の朔日記事が11件と暦法が全く変わっていて、晦日記事は赫居世居西干二十四年「夏六月壬申晦」が紀元前34年6月29日晦日壬申で標準陰暦と同じ、南解次次雄三年「秋七月戊子晦」は6年7月29日乙卯で8月朔日丙辰と全く別の資料で、他は赫居世居西干三十年「夏四月己亥晦」が紀元前28年5月朔日己亥のように朔日が畿内と異なり、朔日が2日を表しているのは朝鮮と同じ経度の国の資料だと解る。
また、有間皇子の乱は天智天皇八年「以蘇我赤兄臣拜筑紫率」と669年に有間皇子を陥れた恩賞で筑紫の率に抜擢し、天智天皇八年「命大錦上蘇我赤兄臣奉宣恩詔」と大錦上位を貰っていて、天智天皇一〇年「以大友皇子拜太政大臣以蘇我赤兄臣爲左大臣」と671年に左大臣となり、「蘇我赤兄大臣女曰常陸娘生山邊皇女」は本来この時の記事と考えられる。
有間の皇子が反乱を起こしたのは667年のことで、「狂心渠」は664年から667年の間に造ったと思われ667年天智天皇六年「送大山下境部連石積等於筑紫都督府」と筑紫都督府の為の工事で、天智天皇三年「於對馬嶋壹岐嶋筑紫國等置防與烽又於筑紫築大堤貯水名曰水城」、天智天皇四年「筑紫國築大野及椽二城」の工事だろう。
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