2020年11月30日月曜日

最終兵器の目 天智天皇3

 『日本書紀』慶長版は

三年春二月己卯朔丁亥天皇命大皇弟宣増換冠倍位階名及氏上民部家部等事其冠有二十六階大織大縫小縫大紫小紫大錦上大錦中大錦下小錦上小錦中小錦下大山上大山中大山下小山上小山中小山下大乙上大乙中大乙下小乙上小乙中小乙下大建小建是爲二十六階焉改前華曰錦從錦至乙加十階又加換前初位一階爲大建小建二階以此爲異餘並依前其大氏之氏上賜大刀小氏之氏上賜小刀其伴造等之氏上賜干楯弓矢亦定其民部家部三月以百濟王善光王等居于難波有星殞於京北是春地震夏五月戊申朔甲子百濟鎮將劉仁願遣朝散大夫郭務悰等進表亟與獻物是月大紫蘇我連大臣薨六月嶋皇祖母命薨冬十月乙亥朔戊寅發遣郭務悰等勅是日中臣內臣遣沙門智祥賜物於郭務悰戊寅饗賜郭務悰等是月髙麗大臣蓋金終於其國遣言於兒等曰汝等兄弟和如魚水勿爭爵位若不如是必爲隣咲十二月甲戌朔乙酉郭務悰等罷歸是月淡海國言坂田郡人小竹田史身之猪槽水中忽然稻生身取而收日々到富栗太郡人磐城村主殷之新婦床席頭端一宿之間稻生而穗其旦垂頴而熟明日之夜更生一穗新婦出庭兩箇鑰匙自天落前婦取而與殷々得始富是歳於對馬嶋壹岐嶋筑紫國等置防與烽又於筑紫築大堤貯水名曰水城

【三年の春二月の朔が己卯の丁亥の日に、天皇は、大皇弟に命じて、冠を変えて位の階の名を多くして、氏の棟梁や民部や家部について諸事を宣下した。その冠は二十六階有った。大織・小織・大縫・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上・大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建・小建、と二十六階とした。前の花を改めて錦と言った。錦より乙までに十階を加えた。また前の初位一階を加え換えて、大建・小建、二階にした。これを異にした。他は前のままだった。その大きい氏の氏の棟梁には大刀を与えた。小さい氏の氏の棟梁には小刀を与えた。その伴の造達の氏の棟梁には干楯と弓矢を与えた。また民部と家部を定めた。三月に、百済王の善光王達を、難波に居住させた。流れ星が京の北に落ちた。この春に、地震があった。夏五月の朔が戊申の甲子の日に、百済の鎭將の劉仁願が、朝散大夫の郭務悰達を派遣して、表函と献上の物を進上した。この月に、大紫の蘇我の連の大臣が薨じた。(?或本に、大臣の薨は五月と注す)六月に、嶋の皇祖母の命が薨じた。冬十月の乙亥が朔の日に、郭務悰達が出発するにあたって詔勅を遺して宣下した。この日に、中臣の内臣が、僧の智祥を派遣して、贈り物を郭務悰に与えた。戊寅の日に、郭務悰達を饗応した。この月に、高麗の大臣の蓋金が、国で死んだ。兒達に「お前たち兄弟は魚と水のように一緒になって、爵位を争ことがあってはならない。もしそうでなかったら、きっと隣に笑われる」と遺言した。十二月の朔が甲戌の乙酉の日に、郭務悰達が帰った。この月に、淡海の国が「坂田の郡の人で小竹田の史の身が猪の飼い水飲み場の水の中に、急に稻が生えた。身は、刈り取って収穫した。どんどん富んだ。栗太の郡の人で磐城の村主の殷が新妻の床の頭の上端に、一晩で、稻が生えて穂が出てその翌日に穂が垂れて熟した。翌日の夜に、また一つの穗が生えた。新婦が庭に出ると二個の鍵が、上から目の前に落ちてきた。婦人が取り上げて殷に与えた。貧しかった殷は富むことが出来た」と言った。この歳に、對馬の嶋と壹岐の嶋と筑紫の国等に、備えと狼煙の設備を置いた。また筑紫に、大堤を築いて水を貯え、名付けて水城という。】とあり、二月己卯朔は1月30日で1月が小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

冠位26階の制定天皇は天智がまだ天智天皇即位前紀「皇太子素服稱制」と喪中に代行しているだけで、天智天皇六年「合葬天豐財重日足姫天皇與間人皇女於小市岡上陵」と天皇の埋葬が終わるまでとしても、天智天皇五年「皇太子親徃於佐伯子麻呂連家」と皇太子と呼んでいる。

『日本書紀』では天智天皇は摂政に就任しておらず、過去の摂政は神功皇后と聖徳太子でともに天皇は存在し、天皇が居ないのなら摂政など就任せず天皇に即位すればよく、公布も大皇弟と前天皇の弟が交付し、白雉四年「間人皇后并率皇弟等」、白雉五年「間人皇后并率皇弟公卿等」と孝徳天皇の弟が存在し、大皇弟はこの弟のことで、天智天皇の弟ならただの皇弟で、即位前ならただの太子弟だ。

そして、『藤氏家伝』に「十三年・・・至秋七月・・・天皇崩于朝倉行宮皇太子素服稱制」と斉明天皇に無い年号を記述し、13年は667年に相当してしまい、小市岡上陵への埋葬とも合致せず他の基準の年号とわかり、『藤氏家伝』 「十三年・・・是月・・・傳聞大唐有魏徴高麗有蓋金百濟有善仲新羅有淳・・・十四年皇太子攝政・・・故高麗王贈内公書云惟大臣」と14年の記事と664年の記事の高麗大臣蓋金と合致する。

そして、意味不明な5月記事に「或本大臣薨注五月」と5月に死んだと注釈していて、私は6月に挿入すべき記事と考え、大紫を与えられた大臣は皇極天皇二年「私授紫冠於子入鹿擬大臣位」で『舊事本紀』に「宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」と本来蘇我臣が連大臣としたことに合致し、乙巳の変が664年6月乙巳の日29日に発生したということで、弟の物部大臣を物部鎌媛大刀自連公が生んだとは記述されず、物部鎌媛大刀自連公の弟が物部大臣で、「大臣之祖母物部弓削大連之妹」と物部守屋が大臣で父親が違う弟が守屋を襲名した可能性が有る。

従って、664年7月に孝徳天皇が急死して、皇弟が大皇弟となり、冠位26階は664年7月以降で665年2月なら丁度、天智天皇四年二月是月「仍以佐平福信之功。授鬼室集斯小錦下」と合致し、大錦中阿雲比邏夫連もこのときに出世したのだろう。

また、ここの嶋皇祖母は、「豐財天皇曰皇祖母尊」の皇祖母ではなく皇極2年の「吉備嶋皇祖母命薨」で、おそらく、嶋大臣の婦人の可能性が高く、豐財皇祖母は、この乙巳の変で豊日を天皇に即位させる。

皇祖母は初代日本国王の天智天皇の母か初代倭国王の宮門を造った2代目馬子の蝦夷大臣の母、嶋大臣の妻以外有り得ず、『舊事本紀』の「宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」は、豊浦大臣が豊浦宮の大臣の意味で、蝦夷は2代目の嶋大臣と考えられ、物部鎌足姫大刀自は妻と考えられる。

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