2020年11月9日月曜日

最終兵器の目 斉明天皇3

 『日本書紀』慶長版は

四年春正月甲申朔丙申左大臣巨勢德太臣薨夏四月阿陪臣率舩師一百八十艘伐蝦夷齶田渟代二郡蝦夷望怖乞降於是勒軍陳舩於齶田浦齶田蝦夷恩荷進而誓曰不爲官軍故持弓矢伹奴等性食肉故持若爲官軍以儲弓失齶田浦神知矣將清白心仕官朝矣仍授恩荷以小乙上定渟代津輕二郡々領遂於有間濱召聚渡嶋蝦夷等大饗而歸五月皇孫建王八歳薨今城谷上起殯而收天皇本以皇孫有順而器重之故不忍哀傷慟極甚詔群臣曰萬歳千秋之後要合葬於朕陵輙作歌曰伊磨紀那屢乎武例我禹杯爾倶謨娜尼母旨屢倶之多多婆那爾柯那皚柯武 伊喩之々乎都那遇舸播杯能倭柯矩娑能倭柯倶阿利岐騰阿我謨婆儺倶爾 阿湏箇我播瀰儺蟻羅毗都都喩矩瀰都能阿比娜謨儺倶母於母保喩屢柯母 天皇時々唱而悲哭秋七月辛巳朔甲申蝦夷二百餘詣闕朝獻饗賜贍給有加於常仍授柵養蝦夷二人位一階渟代郡大領沙尼具那小乙下少領宇婆左建武勇健者二人位一階別賜沙尼具那等鮹旗二十頭鼓二面弓矢二具鎧二領授津輕郡大領馬武大乙上少領青蒜小乙下勇健者二人位一階別賜馬武等鮹旗二十頭鼓二面弓矢二具鎧二領授都岐沙羅柵造位二階判官位一階授渟足柵造大伴君稻積小乙下又詔渟代郡大領沙奈具那撿覈蝦夷戸口與虜戸口是月沙門智通智達奉勅乗新羅舩往大唐國受無性衆生義於玄弉法師所冬十月庚戌朔甲子幸紀温湯天皇憶皇孫建王愴爾悲泣乃口号曰耶麻古曳底于瀰倭拖留騰母於母之樓枳伊麻紀能禹知播倭湏羅庾麻旨珥 瀰儺度能于之裒能矩娜利于那倶娜梨于之廬母倶例尼飫岐底舸庾舸武 于都倶之枳阿餓倭柯枳古弘飫岐底舸庾舸武詔秦大藏造萬里曰傅斯歌勿令忘於世

【四年の春正月の朔が甲申の丙申の日に、左の大臣の巨勢の徳太の臣が薨じた。夏四月に、阿陪の臣が軍船百八十艘を率いて、蝦夷を伐った。齶田と渟代の二郡の蝦夷が、船団を見て恐れて降伏を願い出た。そこで、軍船を整列させて、齶田の浦で軍容を見せつけた。齶田の蝦夷の恩荷は、前に出て「官軍に対しての弓矢を持っていません。ただし私達は、肉食で肉を獲るために持っている。もし官軍に対して弓矢をたくわえたなら、齶田の浦の神にばれてしまう。きよらかで汚れのない気持ちで、朝廷に仕えます」と誓った。それで恩荷に小乙上を授け、渟代と津軽の二郡の郡領に決めた。それで有間の濱に、渡の嶋の蝦夷達を呼び集めて、盛大な饗応を開いて帰した。五月に、皇孫の建王が、年齢が八歳で薨じた。今城の谷の上に、遺体を一時安置所に置いた。天皇は、もともと皇孫が素直で、とても可愛がったので悲しさを隠しきれず、大声を立てて泣き悲しんで、役人に「ずっと後でもいいから絶対に私の陵墓に合葬しなさい」と詔勅した。それで歌を作った()天皇は、1つの歌を唱えるたびに泣き叫んだ。秋七月の朔が辛巳の甲申の日に、蝦夷二百人余が、朝廷にやって来て朝貢した。饗応して恵を与えた。いつもより多かった。それで、柵養の蝦夷二人に位を一階授けた。渟代の郡の長官の沙尼具那には小乙下、補佐の宇婆佐には建武の位、勇敢な二人には位一階。別に沙尼具那達に、吹流しを二十頭と鼓を二面と弓矢を二具と鎧を二領与えた。津輕の郡の長官の馬武に大乙上、補佐の青蒜に小乙下、勇敢な二人には位一階を授けた。別に馬武達に、鮹旗二十頭・鼓二面・弓矢二具・鎧二領を与えた。都岐沙羅の柵の造には位二階を授けた。判官には位一階、渟足の柵の造の大伴の君の稻積には小乙下を授けた。また、渟代の郡の長官の沙尼具那に、蝦夷の戸数と、捕虜の戸数をきびしく調べるよう詔勅した。この月に、修行僧の智通と智達が詔勅を受けて、新羅の船に乗って、大唐国に行って、実態が無いものや人間の条理を、玄奘法師(664年薨)の所で授けられた。冬十月の朔が庚戌の甲子の日に、紀の温泉に行幸した。天皇は、皇孫の建の王を思いやって、悼み悲しんで歌()を口ずさんだ。秦の大藏の造の萬里が「この歌を世間に知らせて忘れないようにしように」と詔勅した。】とあり、七月辛巳朔は6月30日で小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

建武の冠位は大化三年に「六曰黒冠有大小二階・・・七曰建武」と647年に制定されたが、大乙上冠や小乙下冠は無く、大化五年「十五曰大乙上十六曰大乙下十七曰小乙上十八曰小乙下十九曰立身」と649年に制定されるが今度は建武冠が無く立身冠で、天智天皇三年に「大乙上大乙中大乙下小乙上小乙中小乙下大建小建」と大乙上冠や小乙下冠が有り、建武冠はあるが大小がある。

最下位を建武と呼んでいた可能性が高く、664年から天武天皇十四年「并册八階。以前諸臣之位。」の685年までの間で、667年の可能性が高い。

それは、舒明天皇十三年「是時東宮開別皇子年十六而誄之」と、実際は舒明天皇の時には立太子しておらず、「譲位於輕皇子立中大兄爲皇太子」の時太子になっているので、孝徳天皇の崩の時に天智天皇が16歳で、或本云で「方今皇子年始十九未及成人可至成人而待其徳」と有間皇子が19歳で未成人だから徳が無いと一般的な皇位就任条件が記述され、天智天皇が皇位に就けずに母の皇極天皇が即位したということが解る。

そして、天智天皇が即位するのが668年の天智天皇七年「皇太子即天皇位」すなわち『野中寺 銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』に「丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と666年に病気だった中宮天皇、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の「小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉」と667年に小治田大宮天皇が回復のお礼に仏像を奉納した。

そして、その翌年成人したので即位したのだが、この中宮小治田天皇が斉明天皇とすると斉明4年は667年に該当し、建王は661年に1歳で天智天皇12歳、667年7歳だから死亡年齢は「数え」で8歳になる。

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