2020年11月25日水曜日

最終兵器の目 天智天皇2

  『日本書紀』慶長版は

元年春正月辛卯朔丁巳賜百濟佐平鬼室福信矢十万俟絲五百斤綿一千斤布一千端韋一千張稻種三千斛三月庚寅朔癸已賜百濟王布三百端是月唐人新羅人伐髙麗々々乞救國家仍遣軍將據䟽留城由是唐人不得略其南堺新羅不獲輸其西壘夏四月鼠産於馬尾釋道顯占曰北國之人將附南國蓋髙麗破而属日本乎夏五月大將軍大錦中阿曇比邏夫連等率舩師一百七十艘送豊璋等百濟國宣勅以豊璋等使繼其位又予金策於福信而撫其背褒賜爵祿于時豊璋等與福信稽首受勅衆爲流涕六月己未朔丙戌百濟遣達率萬智等進調獻物冬十二月丙戌朔百濟豊璋其臣佐平福信等與狹井連朴市田來津議曰此州柔者遠(?)田畝土地磽确非農桑之地是拒戰之場此焉久處民可飢饉今可遷於避城々々者西北帶以古連旦涇之水東南據深埿巨堰之防繚以周田決渠降雨華實之毛則三韓之上腴焉衣食之源則二儀之隩區矣雖曰地卑豈不遷歟於是朴市田來津獨進而諫曰避城與敵所在之間一夜可行相近茲甚若有不虞其悔難及者矣夫飢者後也亡者先也今敵所以不妄來者州柔設置山險盡爲防禦山峻髙而谿隘守而攻難之故也若處卑地何以固居而不搖動及今日乎遂不聽諫而都避城是歳爲救百濟修繕兵甲備具舩舶儲設軍粮是年也太歳壬戌也

【元年の春正月の朔が辛卯の丁巳の日に、百済の佐平の鬼室福信に、矢十萬隻と絲五百斤と綿千斤と布千端となめし革千張と稲の種籾三千斛を与えた。三月の朔が庚寅の癸巳の日に、百済の王に、布を三百端与えた。この月に唐人と新羅人が高麗を伐った。高麗は、救援を国家に要請した。それで将軍を派遣して、疏留城を拠点にした。これで、唐人は、その南の境界を略奪できず、新羅は、その西の砦を破れなかった。夏四月に、鼠が馬の尾に子を産んだ。僧の道顯が「北の国の人が、南の国にくっつく。きっと高麗が破れて、日本に隷属するのか」と占った。五月に、大將軍の大錦中の阿雲の比邏夫の連達が、軍船百七十艘を率いて、豊璋達を百済国に送って、詔勅を述べて、豊璋達をその位をつけた。また必要な金を福信に与えて、その背中を叩いて、褒めて位と俸給を与えた。その時に、豊璋達と福信とが、土下座して詔勅を受け、みなこれを見て涙を流した。六月の朔が己未の丙戌の日に、百済は、達率の萬智達を派遣して、年貢で進上物を献上した。冬十二月の丙戌が朔の日に、百済の王の豊璋は、その臣の佐平の福信達が、狹井の連と朴市の田來津と相談して「この州柔は、遠く田畝で隔って、地味がやせた土地だ。農業や桑を育てる土地ではない。ここは防戦の場だ。こんなところに長くいたら、人々は飢饉になる。今は避城に遷るべきだ。避城は、西北一帯は古連旦涇の水が水が満ちて、東南は深泥巨水門で守られる。回りを田に囲まれ、決壊するほどの雨が降る。花や実の作物は三韓では鈴なりにできる。衣食の源は、天地が間に入り込んだ場所だ。場所が低い所と言ってどうして遷らないのか」と言った。そこで、朴市の田來津が、一人近寄って「避城と敵の居る所の間は、一晩で行けるとても近い所だ。もし何かあったら、それを悔やんでも悔やみきれない。飢えは後々のことで、亡ぶほうが先だ。今、敵がむやみに遣ってこないのは、州柔が、山の険しいところにあるから、全ての攻撃を守っている。山が急峻で高く谷が狭ければ、守りやすく責めにくい。もし低い土地にいたら、どうして固く守って動かなくてこのようになっただろうか」と諫めた。しかし諫言を聞かないで、避城を都にした。この歳に、百済を救うために、武具を繕い、船舶準備し、兵糧を集めた。この年は太歳が壬戌だった。」とあり、正月辛卯朔と三月庚寅朔は百済がすでに標準陰暦を使用していて、それを暦が違う俀国の日干支で晦の干支したと考えられ、六月己未朔は閏5月1日で閏付きでなかったら標準陰暦と合致する。

そして、大將軍大錦中阿雲比邏夫連は前項で「前將軍大華下阿曇比邏夫連小華下河邊百枝臣等後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣」と冠位が異なっていて664年以降の冠位を記述し、俀国年号の資料で大錦中と地位も上がり、664年の冠位を記述し、ある天皇の元年に昇進させた可能性が有る。

負けた将軍が出世した意味を考えれば、俀国の立ち位置がよくわかり、河邊百枝も677年に「小錦上河邊臣百枝爲民部卿」と出世したことを考えると、この前将軍が俀国や唐に有利なことをしたのだろう。

余豊璋は『三国史記』663年すなわち文武王三年「五月・・・百濟故將福信及浮圖道迎故王子扶餘豊立之圍留鎭郞將劉仁願於熊津城・・・信等釋仁願圍退保任存城既而福信殺道并其衆招還叛亡・・・皆下之扶餘豊脱身走王子忠勝忠志等率其衆降」と663年5月に即位と記述し3月に日本に滞在していても良く符合し、「龍朔元年三月也於是道琛自稱領軍將軍福信自稱霜岑將軍」と661年3月には豊璋が王では無いので将軍位を自称しているようだ。

そして、『三国史記』662年すなわち龍朔二年七月「遣使高句麗·倭國乞師以拒唐兵孫仁師中路迎擊破之」と白村江の戦いに突入するが、倭国に援軍を頼んでいて、良く合致するのは俀国情報で新羅と唐の情報も入って、しかも、唐や新羅の文書の流用なら標準の日干支になるので、俀国自身の情報だった可能性が高い。

そして、『三国史記』に続けて「加林嶮而固攻則傷士守則曠日周留城百濟巢穴 羣聚焉若克之 諸城自下」と『日本書紀』と全く同じ内容が百済義慈王紀に記述されて、『三国史記』の百済の記述が日本の資料を使っている可能性がある。

このように、斉明天皇の660年の記述と『三国史記』の齟齬が倭国朝廷と唐の資料に対して、俀国の資料を『三国史記』が参考にしたからと考えられ、天智天皇の年号も661年を元年とした王もしくは白鳳年号の記述と複数の系列の事績を記述していることがわかる。

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