2020年11月13日金曜日

最終兵器の目 斉明天皇5

  『日本書紀』慶長版は

五年春正月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯三月戊寅朔天皇幸吉野而肆宴焉庚辰天皇幸近江之平浦丁亥吐火羅人共妻舍衞婦人來甲午甘檮丘東之川上造湏弥山而饗陸奧與越蝦夷是月遣阿倍臣率舩師一百八十艘討蝦夷國阿倍臣簡集飽田渟代二郡蝦夷二百四十一人其虜三十一人津輕郡蝦夷一百十二人其虜四人膽振鉏蝦夷二十人於一所而大饗賜祿即以舩一隻與五色綵帛祭彼地神至肉入籠時問菟蝦夷膽鹿嶋菟穗名二人進曰可以後方羊蹄爲政所焉隨膽鹿嶋等語遂置郡領而歸授道奧與越國司位各二階郡領與主政各一階秋七月朔丙子朔戊寅遣小錦下坂合部連石布大仙下津守連吉祥使於唐國仍以陸道奧蝦夷男女二人示唐天子庚寅詔群臣於京內諸寺勸講盂蘭盆經使報七世父母是歳命出雲國造修嚴神之宮狐嚙斷於友郡役丁所執葛末而去又狗嚙置死人手臂於言屋社又髙麗使人持羆皮一枚稱其價曰綿六十斤市司咲而避去髙麗畫師麻呂設同姓賓於私家日借官羆皮七十挍而爲賓席客羞恠而退

【五年の春正月の朔が己卯の辛巳の日に、天皇は紀の温泉から帰った。三月の戊寅が朔の日に、天皇は、吉野に行幸して、大宴会を開いた。庚辰の日に、天皇は近江の平浦に行幸した。丁亥の日に、吐火羅の人が、妻の舍衞国の婦人と共にやって来た。甲午の日に、甘梼の丘の東の川上に、須彌の山を造って、陸奧と越との蝦夷を饗応した。この月に、阿倍の臣を派遣して、軍船百八十艘を率いて、蝦夷の国を討伐した。阿倍の臣は、飽と渟代の、二郡の蝦夷を二百四十一人、その捕虜を三十一人、津輕の郡の蝦夷百十二人、その捕虜四人、膽振鉏の蝦夷二十人を一所に善し悪しを考えて集め、大宴会を開いて俸給を与えた。それで船一隻と、五色の模様の絹を、その地の神に祭った。肉入篭に着いた時に、問菟の蝦夷の膽鹿嶋と菟穗名、の二人が進み出て、「後方羊蹄で、統治する」と言った。膽鹿嶋達の言葉通り、郡領を置いて帰った。道奧と越との5国司に位を各々二階、郡領と三等官に各々一階を授けた。秋七月の朔が丙子の戊寅の日に、小錦下の坂合部の連の石布と大仙下の津守の連の吉祥を唐国に使者として派遣した。それで道奧の蝦夷の男女二人を、唐の天子に紹介した。庚寅の日に、役人に詔勅して、京内の諸寺に、盂蘭盆経の法会を行わせて、七世の父母に報いた。この歳に、出雲の国造に命じて、神の宮の遷宮を行った。狐が、於友の郡の夫役の青年が持つ葛の先を食い切って去って行った。また、狗が、死人の腕を言屋の社に食いちぎって置いた。又、高麗の使者が、羆の皮一枚を持って、その価値を、「綿を六十斤の値だ」と言った。市の役人が、咲い去っていった。高麗の絵師の子麻呂が、同族の賓客を私邸で御馳走した日に、役所の羆皮を七十枚借りて、賓客の敷物にした。客達は、恥て戸惑いながら帰った。】とあり、標準陰暦と合致する。

この年の出来事は小錦下の坂合部連や大仙下津守連と664年の天智天皇三年「其冠有廿六階・・・大錦下小錦上小錦中小錦下・・・小山上小山中小山下・・・是爲廿六階焉改前華曰錦・・・加換前初位一階爲大建小建二階」と649年の大化五年「制冠十九階・・・七曰大華上八曰大華下九曰小華上十曰小華下十一曰大山上十二曰大山下十三曰小山上十四曰小山下・・・十九曰立身」と小錦下の冠位は664年以降のことである。

この入唐は白雉五年二月「遣大唐押使大錦上高向史玄理大使小錦下河邊臣麻呂・・・取新羅道泊于莱州遂到于京奉覲天子」と同じ年の記事で665年2月に唐の 高宗と天皇が謁見した遣大唐で、先遣の「小錦下坂合部連石布」が百済から黄海を渡ったが難破して会稽湾に漂着してから都に行き、天皇は高向史玄理達と新羅回りで渡ったようで、天皇は新羅と友好関係が有る。

それは『舊唐書』「麟德二年封泰山仁軌領新羅及百濟耽羅倭四國酋長赴會高宗甚悅擢拜」、高宗 麟德二年「春正月壬午幸東都丁酉幸合璧宮戊子慮雍洛二州及諸司囚甲子以發向泰山停選三月甲寅」と 高宗が1月末に泰山にいて、ここで「四國酋長赴會」を行ったということだ。

この会談前に先遣隊が遣って来たので、日本の情報を得たのは良いが、「伊吉連博徳書曰・・・國家來年必有海東之政」と唐が日本を占領しようとしていることを知られたため、先遣隊を幽閉したのであり、天智天皇六年「送大山下境部連石積等於筑紫都督府」と唐が日本を統治しようと都督府を置いたのである。

すなわち、この斉明5年は白鳳5年で、白鳳年号に改元した王の年号で、皇極天皇は再婚して舒明天皇の皇后になっているのだから、白雉白鳳の改元は皇極天皇が行った可能性は否定できないが、『薬師寺東塔の擦管』に「維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳建子之月以中宮不悆創此伽藍」、天武天皇九年十一月「是當後岡本天皇之喪而弔使留之未還者也」と薬師寺東塔を中宮天皇を弔うために建立し、なぜだか『日本書紀』どおりなら20年も後まで弔使が残っているはずが無く、680年に崩じているようだ。

従って、白鳳改元の王は、白鳳が683年まで続き、天豊財重日足姫の可能性は低い。

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