『日本書紀』慶長版は
「六年春正月壬寅朔髙麗使人乙相賀取文等一百餘泊于筑紫三月遣阿倍臣率舩師二百艘伐肅愼國阿倍臣以陸奧蝦夷令乗己舩到大河側於是渡嶋蝦夷一千餘屯聚海畔向河而營々中二人進而急叫曰肅愼舩師多來將殺我等之故願欲濟河而仕官矣阿倍臣遣舩喚至兩箇蝦夷問賊隱所與其舩數兩箇蝦夷便指隱所曰舩二十餘艘即遣使喚而不肯來阿倍臣乃積綵帛兵鐵等於海畔而令貪嗜肅愼乃陳舩師繋羽於木舉而爲旗齊棹近來停於淺處從一舩裏出二老翁𢌞行熟視所積綵帛等物便換著單(?衫)各提布一端乗舩還去俄而老翁更來脱置換衫幷置提布乗舩而退阿倍臣遣數舩使喚不肯來復於弊賂弁嶋食頃乞和遂不肯聽據己柵戰于時能登臣馬身龍爲敵被殺猶戰未倦之間賊破殺巳妻子夏五月辛丑朔戊申髙麗使人乙相賀取文等到難波館是月有司奉勅造一百髙座一百衲袈裟設仁王般若之會又皇太子初造漏剋使民知時又阿倍引田臣獻夷五十餘又於石上池邊作湏弥山髙如廟塔以饗肅愼四十七人又舉國百姓無故持兵往還於道秋七月庚子朔乙卯髙麗使人乙相賀取文等罷歸又覩(?貨)羅人乾豆波斯達阿欲歸本土求請送使曰願後朝於大國所以留妻爲表乃與數十人入于西海之路」
【六年の春正月の壬寅が朔の日に、高麗の使者の乙相の賀取文達百余人が、筑紫に停泊した。三月に、阿倍の臣を派遣して、軍船二百艘を率いて、肅愼の国を伐たせた。阿倍の臣は、陸奧の蝦夷を、自分の船に乗せて、大河の辺に着いた。そこに、渡嶋の蝦夷千余が、海辺に集まって、河に向って陣営を置いた。陣営の中の二人が、進み出て急に「肅愼の軍船がたくさん遣って来て、私達を殺そうとしたから、お願いです、河を渡って召しかかえられたい」と叫んだ。阿倍の臣は船を送って、ふたつの蝦夷を呼び寄せて、賊の隱れている所とその船の数を問いただした。ふたつの蝦夷は、それで隱れている所を指さして、「船が二十艘余だ」と言った。それで使者を派遣して召喚した。しかし来なかった。阿倍の臣は、それで美しいいろどりの絹織物と武器と鉄板を海の畔に積んで、関心を引いた。肅愼は、それで船団を並べて、羽を木に繫げて、掲げて旗とした。棹を大事に抱えて近づいて来て、浅瀬に停泊した。その船の中から、二人の老人が出てきて、積んである美しいいろどりの絹織物等をぐるっと一回りして、じっと見つめた。それで一重の肌着と着替えて、それぞれの布一端を手に持って、船に乗って帰った。少し経って老人がまた遣って来て、着替えた肌着を脱いで置き、一緒に手に持った布を置いて、船に乗って帰った。阿倍の臣は数船を派遣して召喚した。来ないで、弊賂辨の嶋に帰った。直ぐ後で和睦を請い求めたが許さなかった。自分の砦で戦った時に、能登の臣の馬身龍が、敵の為に殺された。それでも戦って疲れもしないうちに賊が負けて自分の妻子も殺した。夏五月の朔が辛丑の戊申の日に、高麗の使者の乙相の賀取文達が、難波の館に着いた。この月に、役人が、詔勅どおり、百の高くした座席と百の継ぎ接ぎの法衣を造って、仁王般若の集まりを設営した。また、皇太子が、はじめて水時計を造った。人々に時間を知せた。また、阿倍の引田の臣が夷を五十人余を献上した。また、石上の池の辺に、須彌の山を作った。高さは仏塔の高さ位いだった。それで肅愼人四十七人を饗応した。また、国を挙げて百姓が、理由も無く武器を持って道を往来する。秋七月の朔が庚子の乙卯の日に、高麗の使者の乙相の賀取文達が、帰った。また、覩貨羅人の乾豆波斯達阿が、国にに帰ろうと思って、送使を求めて「出来ましたら後で大国に朝貢します。だから、妻をここに置いてその印とします」と願った。それで数十人と、西海の海路をとった。】とあり、正月壬寅朔と七月庚子朔は標準陰暦と合致するが、五月辛丑朔は612年5月1日、669年5月2日で、『三国史記』に668年寶臧王二十七年「十二月・・・泉男建流黔州分五部百七十六城六十九萬餘戸爲九都督府四十二州百縣置安東都護府於平壤以統之」と668年12月に高句麗が滅び、「二年己巳二月王之庶子安勝率四千餘戸投新羅・・・夏四月劒牟岑欲興復國家叛唐立王外孫安舜羅紀作勝爲主」と669年に新羅を頼っていて、当然日本にも頼ってきたことが十分考えられ、新羅が援助してくれるので、7月に帰って行ったと考えられ、669年7月2日も庚子で、1月1日の前12月30日が壬寅で12月が小の月なら1月1日で畿内干支なら合致する。
そして、皇太子の記述が斉明天皇四年の「於是皇太子親問有間皇子曰」以来で、斉明天皇の項では斉明3年まで皇太子の記述が無く、次に出現するのは斉明天皇七年「皇太子奉徙天皇喪還至磐瀬宮」で記述があまりにも少ないのも、斉明天皇の記述自体が天智天皇の内容の可能性が高い事を意味する。
そうすると、この漏剋記事も再考が必要で、この遺跡と考えられる水落遺跡が飛鳥寺近くに存在し、飛鳥寺は斉明天皇三年「作須彌山像於飛鳥寺西」と657年から出現するが、その次は672年の天武天皇元年「我詐稱高市皇子率數十騎自飛鳥寺北路出之臨營」でその後は何度も出現し、天智天皇一〇年「置漏尅於新臺始打候時動鍾鼓始用漏尅」と671年に漏尅を置いている。
これは奇妙で、須彌山像を作って、斉明天皇五年「甘梼丘東之川上造須彌山而饗」に須彌山を造って饗応の施設にしておきながら、20年放置して、天武天皇六年「饗多禰嶋人等於飛鳥寺西槻下」まで使わないなど考えられず、漏剋記事は670年代の別の皇太子の可能性が高い。
そして、ここの覩貨羅も『新唐書』列傳第一百四十六「吐火羅或曰土豁羅」の西域の大夏の吐火羅ではなく、トカラ列島の覩貨羅で海に面しない大夏が日本に人質を置いたり朝貢するはずが無く、また、大国と記述しているのだから、隠岐に流れ着いた、隠岐の説話の可能性が有る。
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