『日本書紀』慶長版は
「天豊財重日足姫天皇初適於橘豊日天皇之孫髙向王而生漢皇子後適於息長足日廣額天皇而生二男一女二年立爲皇后見息長足日廣額天皇紀十三年冬十月息長足日廣額天皇崩明年正月皇后即天皇位改元四年六月讓位於天萬豊日天皇稱天豊財重日足姫天皇曰皇祖母尊天萬豊日天皇後五年十月崩元年春正月壬申朔甲戌皇祖母尊即天皇位於飛鳥板蓋宮夏五月庚午朔空中有乗龍者貌似唐人著青油笠而自葛城嶺馳隱膽駒山及至午時從於住吉松嶺之上西向馳去秋七月己巳朔己卯於難波朝饗北蝦夷九十九人東蝦夷九十五人幷設百濟調使一百五十人仍授柵養蝦夷九人津(?刈)蝦夷六人冠各二階八月戊戌朔河邊臣麻呂等自大唐還冬十月丁酉朔巳酉於小墾田造起宮闕擬將瓦覆又於深山廣谷擬造宮殿之材朽爛者多遂止弗作是冬災飛鳥板蓋宮故遷居飛鳥川原宮是歲髙麗百濟新羅並遣使進調蝦夷隼人率衆內属詣闕朝獻新羅別以及飡弥武爲質以十二人爲才伎者弥武遇疾而死是年也太歳乙卯」
【天豊財重日足姫天皇は、はじめ橘豊日天皇の孫の高向王に嫁いで、漢の皇子を生んだ。後で息長の足日の廣額の天皇に嫁いで、二人の男子と一人の女子を生んだ。二年に、皇后になった。息長の足日の廣額の天皇の紀に見える。十三年の冬十月に、息長の足日の廣額の天皇が、崩じた。明年の正月に、皇后は、天皇に即位した。改元して四年の六月に、皇位を天の萬の豊日の天皇に讓った。天豊財重日足姫天皇を皇祖母の尊と言った。天の萬の豊日の天皇は、後の五年の十月に崩じた。元年の春正月の朔が壬申の甲戌の日に、皇祖母の尊は、飛鳥の板蓋の宮で、天皇に即位した。夏五月の庚午が朔の日に空中を龍に(乗った様に速く走る馬に)乗った者が居た。顔立ちは唐人のようだった。青い油を塗った笠を着けて、葛城の嶺から、膽駒の山駆け抜けていって見えなくなった。日暮れには(?夏至の昼間が14時間位で日の入り頃)、住吉の松嶺から、西に向って走り去った。秋七月の朔が己巳の己卯の日に、難波の朝廷で、北の蝦夷が九十九人、東の蝦夷九十五人に饗応した。一緒に百濟の年貢を納める使者の百五十人も饗応した。それで、峡養の蝦夷の九人と、津刈の蝦夷の六人に、冠を各々二階を授けた。八月の戉戌が朔の日に、河邊の臣麻呂達が、大唐から帰った。冬十月の朔が丁酉の己酉の日に、小墾田に、皇居を造って、瓦葺にしようとした。また奥深い山の大きい谷の木材で、宮殿を造ろうとしたが、朽ち果てた木が多くてやめて造らなかった。この冬に、飛鳥の板蓋の宮に火災が起こった。それで、飛鳥の川原の宮に遷った。この歳に、高麗と百済と新羅が、同時にに使者を派遣して年貢を進上した。蝦夷と隼人が人々を率いて服従した。朝廷の宮殿に参上して献上した。新羅は、別に及飡の弥武を人質にした。十二人を、手芸の担当者とした。弥武は病気で死んだ。この年は、太歳が乙卯だった。】とあり、七月己已朔は7月2日で、6月が小の月で大の月なら標準陰暦と合致し、7月1日で合致する干支は7世紀には存在せず、他は標準陰暦と合致する。
皇極天皇元年「天皇遷移於小墾田宮」と小墾田に遷都を計画し、「欲營宮室可於國國取殿屋材然東限遠江西限安藝」と遠くから材料を取り寄せたが造らず、皇極天皇二年「自權宮移幸飛鳥板盖新宮」と板盖宮を造って全く同じ話が記述されている。
『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年・・・然當時崩賜造不堪」と646年に池邊天皇が崩じ翌年「小墾田」に遷そうとしたが造らず『日本書紀』舒明天皇二年「天皇遷於飛鳥岡傍是謂岡本宮」、大化三年「十三階之冠・・・四曰錦冠」と647年制定された錦冠を『藤氏家伝』「崗本天皇御宇之初以良家子簡授錦冠」と648年に即位した崗本天皇が鎌足に授与し、「俄而崗本天皇崩皇后即位」と648年若しくは649年に皇極天皇が即位した。
そして『藤氏家伝』「十四年皇太子攝政」と664年が14年の王が即位したのは651年で13年間皇位に有ったのは崗本天皇で651年は皇極天皇2年に対応し、『古事記』の馬子が書いた舒明天皇は「坐崗本宮治天下之天皇」で『日本書紀』の後の舒明天皇が書いた舒明天皇は「息長足日廣額天皇」と記述され、皇后は「詔立豐御食炊屋姫尊爲皇后・・・其六曰田眼皇女是嫁於息長足日廣額天皇」と夫人は田眼皇女で、この舒明天皇の時はまだ皇極天皇は舒明天皇の皇后では無かった。
そして、天智天皇が書いた舒明天皇は「田眼皇女」を記述せず「宝皇女」が皇后の舒明天皇で、『古事記』沼名倉太玉敷「娶伊勢大鹿首之女小熊子郎女生・・・寶王亦名糠代比賣」、「日子人太子娶庶妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」で、『日本書紀』には「田村王」は追記であるだけで記述されず「糠手姫皇女」となっていて、舒明天皇の母が「母曰糠手姫皇女」と糠手姫で『古事記』では「糠代姫」でもあり、「宝皇女」は『日本書紀』では舒明天皇の母で皇后である。
このように、複数の舒明天皇が存在し、すると、天智天皇が『日本書紀』「茅渟王女也母曰吉備姫王」と「天豊財重日足姫」を書いているが、『日本書紀』の舒明天皇に合わせるため「茅渟王」を父としているが、妻である可能性が高く、「吉備嶋皇祖母」は「皇祖天智天皇」の母でなければ意味が通らなかった。
そして、『日本書紀』には「宝王」が「彦人」と兄弟と記述されず、『古事記』には舒明天皇の母が『日本書紀』で皇后、すると、『古事記』「娶漢王之妹大俣王生御子知奴王次妹桑田王」と「知奴王」の母「大俣王」が『日本書紀』では「知奴王」の妻で、『古事記』「娶春日中若子之女老女子郎女生御子難波王次桑田王次春日王次大俣王」のように「桑田王」と「大俣王」が姉妹で、「難波王」が「漢王」と言うことになり、『日本書紀』では一世代違うので「漢王」は全く記述されない。
そのかわり、『日本書紀』斉明天皇前紀に「初適於橘豐日天皇之孫高向王而生漢皇子」と漢皇子が兄弟ではなく子供として記述され、『日本書紀』の系図をまとめると、「高向王」も一世代前で「橘豊日」は「馬子」で「高向王」は俀国の王家の子で娘婿すなわち「東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻」で「高向王」は「漢王」の「東漢直駒」、その娘が「宝王」で婿が「彦人太子」の子の「茅渟王」で、その子が「天智天皇」と言うことになる。
そして、皇極天皇は「天豐財重日足姫」で名前から言えば天の豊の日国を治めた財重姫、孝徳天皇は「天萬豊日」で天の豊の日の萬で豊は広島県から宮崎県、もしかしたら紀伊までの瀬戸内まで含む地域の事で、豊の日はその豊の中の日国すなわち九州地域の豊の王で『山海經』海外南經「地之所載六合之閒四海之內照之以日月經之以星辰紀之以四時要之以太歲神靈所生其物異形或夭或壽唯聖人能通其道」の神靈が生れる土地出身の王を意味し俀国王だ。
なお、「改元四年」はおそらく白鳳四年の664年、「天萬豊日天皇後五年」も660年に即位し、白鳳に改元した王が即位して5年で同じく664年で、天萬豊日天皇は6月に即位して10月に崩じた、『藤氏家伝』の「俄而天万豊日天皇」と良く合致する。
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