2020年11月18日水曜日

最終兵器の目 斉明天皇7

 『日本書紀』慶長版は

九月己亥朔癸卯百濟遣達率沙弥覺從等來奏曰今年七月新羅恃力作勢不親於隣引搆唐人傾覆百濟君臣揔俘略無噍類於是西部恩率鬼室福信赫然發憤據任射岐山達率餘自進據中部久麻怒利城各營一所誘聚散卒兵盡前役故以棓戰新羅軍破百濟奪其兵既而濟兵翻鋭唐不敢入福信等遂鳩集同國共保王城國人尊曰佐平福信佐平自進唯福信起神武之權興既亡之國冬十月百濟佐平鬼室福信遣佐平貴智等來獻唐俘一百餘人今美濃國不破片縣二郡唐人等也又乞師請救幷乞王子余豊璋曰唐人率我蝥賊來蕩搖我疆埸覆我社稷俘我君臣而百濟國遙頼天皇(?)念更鳩集以成邦方今謹願迎百濟國遣侍天朝王子豊璋將爲國主云云詔曰乞師請救聞之古昔扶危繼絶著自恒典百濟國窮來歸我以本邦喪亂靡依靡告枕戈嘗膽必存拯救遠來表啓志有難奪可分命將軍百道倶前雲會雷動倶集沙㖨翦其黥鯢紓彼倒懸冝有司具爲與之以禮發遣云云十二月丁卯朔庚寅天皇幸于難波宮天皇方隨福信所乞之意思幸筑紫將遣救軍而初幸斯備諸軍器是歳欲爲百濟將伐新羅乃勅駿河國造舩已訖挽至績麻郊之時其舩夜中無故艫舳相反衆知終敗科野國言蠅群向西飛踰巨坂大十圍許髙至蒼天或知救軍敗績之恠有童謠曰摩比邏矩都能倶例豆例於社幣陀乎邏賦倶能理歌理(?)美和陀騰能理歌美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理鵝甲子騰和與騰美烏能陛陀烏邏賦倶能理歌理(?)

【九月の朔が己亥の癸卯の日に、百済は、達率と沙彌の覺從達を派遣して来て、「今年の七月に、新羅が、戦力の勢いで隣国と和親しないで、唐人を引き込んで、百済を破滅させた。君主も臣下もみな捕虜にしてほとんど歯向かう者がいない」と奏上した。そこで、西部の恩率の鬼室福信が、はげしく怒り意気込んで、任射岐の山にたてこもった。達率の餘自進は、中部の久麻の怒利の城にたてこもった。各々一ヶ所に陣営を作り、散らばった兵士を誘って集めた。武器は、前の闘いで尽きたので、棍棒で戦ったが新羅の軍を敗り、百済は、その武器を奪った。もう百済の兵力はよみがえって俊英だ。唐あえて入ってこない。福信達はとうとう同国人を集めた大軍にして、一緒に王城を守った。国の佐平の福信は、佐平の中で一人の力で進軍した。神のように勇敢な計略で既に滅んだ国を再興したのは福信だけだ」と貴んだ。冬十月に、百済の佐平の鬼室福信は、佐平の貴智達を派遣して、遣って来て唐の捕虜を百人余献上した。今、美濃の国の不破と片の縣の二郡の唐人達だ。また、救援軍の派遣を願い求めた。併せて王子の余豊璋を求めて「唐人は自国の根切り虫のような賊を連れて来て、私の国境をうろついて、私の国家を転覆させ、私の君主や家臣を捕虜にした。そして百済の国は、昔から天皇が心にかけて守ってもらえることを頼りに、より多くの民を集めて邦を造った。今こそ、謹しんでお願いするのは、百済の国が、天皇の朝廷に派遣して仕えている王子の豊璋を迎えて、国の主としたい」と云云。「援軍の願いは前に聞いた。国が絶えようとするのを助けるのは、不変のきまりに書かれている。百済の国は、にっちもさっちもいかなくなった。私は百済の人々が国の弔い合戦で頼る所も相談するところも無く矛を枕にして苦労しているので、遠くからきている使者に必ず援助の手を差し伸べようと表明した。奪い難い志を持って将軍達それぞれに命じて多くの路を共に進軍するべきだ。雲のように群れ雷のように行動して、一緒に沙㖨に集れば、その大悪人を滅ぼして、そのさかさまにつるされたような苦しみを和らげよう。役人が、詳しく命令を与えて、儀礼通りに出発して派遣させなさい」と詔勅して、云云。十二月の朔が丁卯の庚寅の日に、天皇は難波の宮に行幸した。天皇は、福信の願い通りに、筑紫に行幸して、援軍を派遣しようと思って、まずここに行幸して、諸々の兵器を準備した。この歳に、百済の為に、新羅を討伐しようと、駿河の国に詔勅して船を造らせた。造り終わって、續麻郊に引いて来た時に、その船が、夜中に理由も無く、横転して沈んだ。人々はきっと敗退すると知った。科野の国は「蝿が群って西に向って、巨坂を飛び過ぎて行った。大きさは十抱え位だった。高さは蒼い天に届いた」と言った。あるいは援軍が大敗して全てを失う異変と思った。子供たちが歌った()】とあり、十二月丁卯朔は660年ではなく659年12月2日で九州・朝鮮の朔日、他は標準陰暦と合致する。

『三国史記』義慈王十九年「夏四月太子宮雌雞與小雀交遣將侵攻新羅獨山桐岑二城」、武烈王六年「夏四月百濟頻犯境王將伐之遣使入唐乞師」と659年はまだ百済が優勢で、唐軍が新羅に援軍を出すと決定したのは武烈王六年「冬十月・・・昨到大唐 認得皇帝命大將軍蘇定方等 領兵以來年五月來伐百濟」と669年10月で659年12月の記事は俀国記事の新羅援軍の記事を流用した記事と思われ、百済の為の船を転覆させたのは俀国なのだろう。

余豊璋は『三国史記』文武王三年「五月・・・百濟故將福信及浮圖道迎故王子扶餘豊立之圍留鎭郞將劉仁願於熊津城・・・信等釋仁願圍退保任存城既而福信殺道并其衆招還叛亡・・・皆下之扶餘豊脱身走王子忠勝忠志等率其衆降」と663年5月に即位と記述し、「龍朔元年三月也 於是道琛自稱領軍將軍福信自稱霜岑將軍」と661年3月には豊璋が王では無いので将軍位を自称している。

そして、龍朔二年七月「時福信旣專權 與扶餘豊寖相猜忌福信稱疾臥於窟室欲俟豊問疾執殺之豊知之帥親信掩殺福信遣使高句麗·倭國乞師」と662年7月に福信を殺して、この時に日本に援軍を要請しているので、この記事は662年の内容だと考えられ、次項の「糺解」も豊璋の可能性を否定できず、入鹿大臣への即位年数が6年目と言うことかもしれない。

しかし、『舊唐書』は「遣使往倭國迎故王子扶余豐立爲王・・・時龍朔元年三月也」と661年に余豊璋が王となったとのべ、東夷の百済に「二年七月・・・扶余豐覺而率其親信掩殺福信」と662年に福信を殺し、660年12月に日本から送り出せば『舊唐書』に合致し、『日本書紀』は2つの資料を持ち、ともに記述して、『日本書紀』をもとに『三国史記』を記述した可能性が有る。


0 件のコメント:

コメントを投稿