2020年11月27日金曜日

最終兵器の目 天智天皇2

  『日本書紀』慶長版は

二年春二月乙酉朔丙戌百濟遣達金受等進調新羅人焼燔百濟南畔四州幷取安德等要地於是避城去賊近故勢不能居乃還居於州柔如田來津之所計是月佐平福信上送唐俘續守言等三月遣前將軍上毛野君稚子間人連大蓋中將軍巨勢神前臣譯語三輪君根呂後將軍阿倍引田臣比邏夫大宅臣鎌柄率二萬七千人打新羅夏五月癸丑朔犬上馳告兵事於髙麗而還見糺解於石城糺解仍語福信之罪六月前將軍上毛野君稚子等取新羅沙鼻岐奴江二城百濟王豊璋嫌福信有謀反心以革穿掌而縛時難自決不知所爲乃問諸臣曰福信之罪既如此焉所斬不於是達率德執得曰此惡逆人不合放捨福信即唾於執得曰腐(?)癡奴王勒健兒斬而醢首秋八月壬午朔甲午新羅以百濟王斬已良將謀直入國先取州柔於是百濟知賊所計謂諸將曰今聞大日本國之救將廬原君臣率健兒万餘正當越海而至願諸將軍等應預圖之我欲自往待饗白村戊戌賊將至於州柔繞其王城大唐軍將率戰舩一百七十艘陣烈於白村江戊申日本舩師初至者與大唐舩師合戰日本不利而退大唐堅陣而守巳酉日本諸將與百濟王不觀氣象而相謂之曰我等爭先彼應自退更率日本亂伍中軍之卒進打大唐軍大唐便自左右夾舩繞戰湏臾之除官軍敗績赴水溺死者衆艫舳不得𢌞旋朴市田來津仰天而誓切齒而嗔殺數十人於焉戰死是時百濟王豊璋與數人乗舩逃去髙麗九月辛亥朔丁巳百濟州柔城始降於唐是時國人相謂之曰州柔降矣事無奈何百濟之名絶于今日丘墓之所豈能復往伹可往於弖禮城會日本軍將等相謀事機所要遂教本在枕服岐城之妻子等令知去國之心辛酉發途於牟互癸亥至互禮甲戌日本舩師及佐平余自信達率木素貴子谷那晉首憶禮福留幷國民等至於互禮城明日發舩始向日本

【二年の春二月の朔が乙酉の丙戌の日に、百済が、達率の金受達を派遣して、年貢を進上した。新羅人は、百済の南の近くの四つの国を焼いた。一緒に安徳達の重要な地点を取った。それで、避城は、賊との距離が近いから、この勢いでは居ることが出来ない。それで州柔にかえっていた。田來津の考えたとおりだ。この月に、佐平の福信が、唐の捕虜の續守言達を送って来た。三月に、前將軍の上毛野の君の稚子と間人の連の大と、中將軍の巨勢の神前の臣の譯語と三輪の君の根麻呂と、後將軍の阿倍の引田の臣の比邏夫と大宅の臣の鎌柄を派遣して、二萬七千人を率いて新羅を攻撃させた。夏五月の癸丑が朔の日に、犬上の君を速駆けで、軍略を高麗に伝えて帰った。糺解が石城に居た。糺解はそれで福信の罪を伝えた。六月に、前將軍の上毛野の君の稚子達が、新羅の沙鼻岐奴江の二城を取った。百済の王の豊璋は、福信が謀反を考えていると疑って、手に穴をあけて革で縛った。その時に自分で決められないのでどうすることもできなかった。それで家臣に「福信の罪はこのようであった。斬るべきかどうか」と問いかけた。そこで、達率の徳執得が「この主君を殺そうとした者を、放免してはならない」と言った。福信はそれで執得に唾を吐きかけて「腐った犬のように小汚いやつだ」と言った。王は、元気な若者を押さえつけて、首を斬って酢漬けにした。秋八月の朔が壬午の甲午の日に新羅は、百済の王が自分から立派な大将を斬ったので、すぐに国に侵入してまず州柔を取ろうと考えた。そこで、百済は賊の計画を知って、諸將に「今々聞いたのだが、大日本国の援軍の将軍の廬原の君の臣が、元気な若者萬人余を率いて、ちょうど海を渡って遣って来た。できたら、諸將軍達は、前もって考えるべきだ。私たちが自ら行って、白村で待って饗応しよう」と言った。戊戌の日に、賊將は、州柔に遣ってきて、その王の城を取り囲んだ。大唐の軍將が、軍船百七十艘を率いて、白村江に並んで陣取った。戊申の日に、日本の軍船団の第一陣と、大唐の軍船団と合戦した。日本が不利で退却した。大唐が陣を堅めて守った。己酉の日に、日本の諸將と、百済の王とが、戦況や天候を考えないで、「私たちが先を争ったら、敵は自ら退却するだろう」と語り合った。さらに日本の隊列を乱した中軍の兵を率いて、進軍して大唐が陣を堅めた軍に打って出た。大唐は、それで左右から船を挟んで取り囲んで戦った。あっという間に、官軍は負けに負けた。海に入っておぼれ死んだ者が多かった。引き返すこともできなかった。朴市の田來津は天を仰いで誓って、歯を食いしばって怒って数十人を殺したが戦死した。この時に、百済の王の豊璋は、数人と船に乗って、高麗に逃げ去った。九月の朔が辛亥の丁巳の日に、百済の州柔の城は、はじめて唐に降伏した。この時に、国中の人が「州柔が降伏した。このことは如何しようも無い。百済の名が、今この日で絶えた。丘墓すら破壊されてもう行くことが出来ない。ただ弖禮の城に行って、日本の將軍達に会って、結果の反省を言い合うだけだった」と語り合った。とうとう本から枕服岐の城に居た妻子達に教えて、国を去る理由を知らせた。辛酉の日に、牟弖に出発した。癸亥の日に、弖禮についた。甲戌の日に、日本の船団と一緒に、佐平の余自信と達率の木素貴子と谷那晉首と憶禮福留、あわせて国の人達が、弖禮の城についた。翌日、船で出発して日本へ向った。】とあり、八月壬午朔は8月2日で7月は小の月で大の月なら標準陰暦と合致し、『三国史記』の晦が望月の日干支が威德王十九年「秋九月庚子朔日有食之」が朔日なのに三十九年は「秋七月壬申晦日有食之」と晦日が朔と1日ずれ、百済資料による誤差かもしれず、他は標準陰暦と合致する。

『三国史記』義慈王の龍朔二年七月「時福信旣專權與扶餘豊寖相猜忌福信稱疾臥於窟室欲俟豊問疾執殺之豊知之帥親信掩殺福信遣使高句麗·倭國乞師」と662年7月に福信を殺して、この時に日本に援軍を要請しているので、この天智2年の記事は662年の内容だと考えられ、『舊唐書』は「遣使往倭國迎故王子扶余豐立爲王・・・時龍朔元年三月也」と661年に余豊璋が王となったとのべ、東夷の百済に「二年七月・・・扶余豐覺而率其親信掩殺福信」と662年に福信を殺し、斉明天皇七年「夏四月百濟福信遣使上表乞迎其王子糺解」と王を挿げ替えようとしたことを糺解が伝え、それを聞いて福信謀反を知ったようだ。

すなわち、同じ『三国史記』でも百済記は唐と同じで、新羅は『日本書紀』の天智紀と同じで新羅の立ち位置が俀国よりで後に唐と離反したためで、『日本書紀』の資料を使った可能性が有る。

そして、『三国史記』義慈王の龍朔二年七月662年に扶餘隆帥水軍及粮船自熊津江往白江」と扶余豊が白江に出たのを待ち構えて、続けて「以會陸軍同趍周留城遇倭人白江口四戰皆克焚其舟四百艘煙炎灼天海水爲丹王扶餘豊脫身而走不知所在或云奔高句麗獲其寶劒王子扶餘忠勝忠志等帥其衆與倭人並降」と大勝利し、扶余豊が州柔を出ることを察知していたような記述になっていて、新羅や唐は百済の情報が筒抜けであったようで、その情報を流したのが天智天皇だったのだろう。

それで、中軍が壊滅し、前軍は早々と退却してその将軍の大華下阿曇比邏夫連が大錦中阿雲比邏夫連と出世し、同じく將軍の小華下河邊百枝臣も天武天皇六年「小錦上河邊臣百枝爲民部卿」と出世し、天智天皇の仲間で情報流出に関係が有るのかもしれない。

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