2020年9月7日月曜日

最終兵器の目 巻第二十三 舒明天皇1

 今回はとても長いが、前紀の分割が難しいので解説を最初にして、原文と訳は後に回した。

『古事記』に「日子人太子娶鹿(庶)妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」とあるように、日子人太子の子で、「娶息長真手王之女比呂比賣命生御子忍坂日子人太子」と息長真手王の娘の子で舒明天皇の名が息長足日廣額と息長氏の皇子と天皇名から舒明天皇を考えるとよく符合している。

しかし、『藤氏家伝』に「崗本天皇御宇之初以良家子簡授錦冠」と舒明天皇の即位の時に活躍したのは鎌足となっていて、『日本書紀』では「中臣連彌氣」が活躍しており、鎌足が舒明天皇初年に活躍しなければ、乙巳の変での活躍は有り得ず、「彌氣」はその父親で推古天皇が若いころの活躍が妥当で、推古天皇三二年の「大臣遣阿曇連阿倍臣摩侶二臣」は十月癸卯朔623年の記事だったように、この舒明天皇前紀記事は620年代の記事である。

境部臣摩理勢は推古天皇二十年「境部臣摩理勢令誄氏姓之本矣」と堅鹽媛の哀悼をしているが、推古天皇59歳にその母の薨去は異様で、推古天皇の即位当時39歳頃なら堅鹽媛も60歳程度で妥当となり、摩理勢も推古天皇と同程度の年齢でなければ哀悼できないと思われるし、摩理勢は殺害されているのだから早死にである。

そして、斑鳩宮は聖徳太子の宮でなので、後継者の山背大兄がこの宮の当主のはずが、何故か

泊瀬王を記述して、摩理勢は山背王の為だったはずが泊瀬王の為に動いたことに挿げ代わってしまった。

私は、豊聴耳が馬子と述べ、馬子は御井夫人に婿入りして斑鳩に移ったとして、御井夫人の宮が斑鳩、御井夫人は泥部穴穗部皇女のことだと述べ、豊御食炊屋姫の夫が崩じた後を泥部穴穗部皇子が継承して、その皇太子が守屋で馬子の義兄達と述べた。

本来、天皇には必ず後継者が必要で、後継者がいない者は天皇になれなず、後継者は長男若しくは弟で、ここで、皇太子がいないと推古天皇が述べたのは、文中で「大王」と言っているように、天皇では無く大王だった推古天皇がすなわち前政権の皇后でもう皇后でもなく、皇太后でない前皇后も大王とよび、後継天皇の泥部穴穗部皇子と皇太子の守屋が殺害されたため、後継天皇を決めなければならなかったということだ。

『日本書紀』は俀国の遣隋使などの事績をいとも簡単に天皇家の事績に挿げ替え、法興帝を推古天皇の皇太子に挿げ替えたように、崇峻天皇のことを舒明天皇の即位記事に挿げ替えたのであり、それを継承した『上宮聖徳法王帝説』の太子の子達も複数の大王の寄せ集めだ。

そして、先代の馬子すなわち『隅田八幡神社人物画像鏡』の「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻」と623年に竹田皇子に鏡を送った嶋と物部御井夫人の子の厩戸豐聰耳の馬子、その子の厩戸豐聰耳と『舊事本紀』に「物部鎌媛大刀自連・・・宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」、これは嶋を襲名した豊浦大臣の厩戸豐聰耳の妻が鎌媛大刀自で子供が豊浦大臣を襲名する入鹿である。

これは『日本書紀』にも皇極天皇二年「私授紫冠於子入鹿擬大臣位復呼其弟曰物部大臣大臣之祖母物部弓削大連之妹」と入鹿の祖母が御井夫人と記述している。

『日本書紀』慶長版は

息長足日廣額天皇渟中倉太珠敷天皇孫彥人大兄皇子之子也母曰糠手姫皇女豊御食炊屋姫天皇二十九年皇太子豊聰耳尊薨而未立皇太子以三十六年三月天皇崩九月葬禮畢之嗣位未定當是時蘇我蝦夷臣爲大臣獨欲定嗣位顧畏群臣不從則與阿倍麻呂臣議而聚群臣饗於大臣家食訖將散大臣令阿倍臣語群臣曰今天皇既崩無嗣若急不計畏有亂乎今以詎王爲嗣天皇臥病之日詔田村皇子曰天下大任本非輙言爾田村皇子愼以察之不可緩次詔山背大兄王曰汝獨莫誼讙必從群言愼以勿違則是天皇遺言焉今誰爲天皇時群臣嘿之無荅亦問之非荅強且問之

於是大伴鯨連進曰既從天皇遺命耳更不可待群言阿倍臣則問曰何謂也開其意對曰天皇曷思歟詔田村皇子曰天下大任也不可緩因此而言皇位既定誰人異言時采女臣摩禮志髙向臣宇摩中臣連(?)氣難波吉士身刺四臣曰隨大伴連言更無異許勢臣大麻呂佐伯連東人紀臣塩手三人進曰山背大兄王是冝爲天皇唯蘇我倉麻呂臣獨曰臣也當時不得便言更思之後啓爰大臣知群臣不和而不能成事退之先是大臣獨問境部摩理勢臣曰今天皇崩無嗣誰爲天皇對曰舉山背大兄爲天皇是時山背大兄居於斑鳩宮漏聆是議即遣三國王櫻井臣和慈古二人密謂大臣曰傳聞之升父以田村皇子欲爲天皇我聞此言立思矣居思矣未得其理願分明欲知升父之意於是大臣得山背大兄之告而不能獨對則喚阿倍臣中臣連紀臣河邊臣髙向臣采女臣大伴連許勢臣等仍曲舉山背大兄之語既而便且謂大夫等曰汝大夫等共詣於斑鳩宮當啓山背大兄王曰賤臣何之獨輙定嗣位唯舉天皇之遺詔以告于群臣群臣並言如遺言田村皇子自當嗣位更詎異言是群卿言也特非臣心伹雖有臣私意而惶之不得傳啓乃面日親啓焉爰群大夫等受大臣之言共詣于斑鳩宮使三國王櫻井臣以大臣之辭啓於山背大()時大兄王使傳問群大夫等曰天皇遺詔奈之

何對曰臣等不知其深唯得大臣語狀稱天皇臥病之日詔田村皇子曰非輕輙言來國政是以爾田村皇子愼以言之不可緩次詔大兄王曰汝肝稚而勿諠言必冝從群言是乃近侍諸女王及采女等悉知之且大王所察於是大兄王且令問之曰是遺詔也專誰人聆焉荅曰臣等不知其密既而更亦令告群大夫等曰愛之升父勞思非一介之使遣重臣等而教覺是大恩也然今群卿所噵天皇遺命者小小違我之所聆吾聞天皇臥病而馳上之侍于門下時中臣連(?)氣自禁省出之曰天皇命以喚之則參進向于閤門亦栗隈采女黒女迎於庭中引入大殿於是近習者栗下女王爲首女孺鮪女等八人幷數十人侍於天皇之側且田村皇子在焉時天皇沈病不能覩我乃栗下女王奏曰所喚山背大兄王參赴即天皇起臨之詔曰朕以寡薄久勞大業今暦運將終以病不可諱故汝本爲朕之心腹愛寵之情不可爲比其國家大基是非朕世自本務之汝雖肝稚愼以言乃當時侍之近習者悉知焉故我蒙是大恩而一則以懼一則以悲踊躍歡喜不知所如仍以爲社稷宗廟重事也我眇少以不賢何敢當焉當是時思欲語升父及群卿等然未有可噵之時於今非言耳吾曽將訊升父之病向京而居豊浦寺是日天皇遣八口采女鮪女詔之曰爲汝升父大臣常爲汝愁言百歲之後嗣位非當汝乎故愼以自愛矣既分明有是事何疑也然我豈餮天下唯顯聆事耳則天神地祇共證之是以冀正欲知天皇之遺勅亦大臣所遣群卿者從來如嚴矛(嚴矛此云伊箇之保虛)取中事而奏請人等也

故能冝白升父既而泊瀬仲王別喚中臣連河邊臣謂之曰我等父子並自蘇我出之天下所知是以如髙山恃之願嗣位勿輙言則令三國王櫻井臣副群卿而遣之曰欲聞還言時大臣遣紀臣大伴連謂三國王櫻井臣曰先日言訖更無異矣然臣敢之輕誰王也重誰王也於是數日之後山背大兄亦遣櫻井臣告大臣曰先日之事陳聞耳寧違升父哉是日大臣病動以不能面言於櫻井臣明日大臣喚櫻井臣即遣阿倍臣中臣連河邊臣小墾田臣大伴連啓山背大兄言自磯城嶋宮御宇天皇之世及近世者群卿皆賢哲也唯今臣不賢而遇當乏人時誤居群臣上耳是以不得定基然是事重也不

能傳噵故老臣雖勞面啓之其唯不誤遺勅者也非臣私意既而大臣傳阿倍臣中臣連更問境部臣曰誰王爲天皇對曰先是大臣親問之日僕啓既訖之今何更亦傳以告耶乃大忿而起行之適是時蘇我氏諸族等悉集爲嶋大臣造墓而次于墓所爰摩理勢臣壞墓所之廬退蘇我田家而不仕時大臣慍之遣身狹君勝牛錦織首赤猪而誨曰吾知汝言之非以干支之義不得害唯他非汝是我必忤他從汝若他是汝非我當乖汝從他是以汝遂有不從者我與汝有瑕則國亦亂然乃後生言之吾二人破國也是後葉之惡名焉汝愼以勿起逆心然猶不從而遂赴于斑鳩住於泊瀬王宮於是大臣益

怒乃遣群卿請于山背大兄曰項者摩理勢違臣匿於泊瀬王宮願得摩理勢欲推其所由爰大兄王荅曰摩理勢素聖皇所好而暫來耳豈違升父之情耶願勿瑕則謂摩理勢曰汝不忌(忘)先王之恩而來甚愛矣然其因汝一人而天下應亂亦先王臨設謂諸子等曰諸惡莫作諸善奉行余承斯言以爲永戒是以雖有私情忍以無怨復我不能違升父願自今以後勿憚改意從群而无退是時大夫等且誨摩理勢臣之曰不可違大兄王之命於是摩理勢臣進無所歸乃泣哭更還之居於家十餘日泊瀬王忽發病薨爰摩理勢臣曰我生之誰恃矣大臣將殺境部臣而興兵遣之境部臣聞軍至率仲子阿椰出于門坐胡床而待時軍至乃令來目物部伊區比以絞之父子共死乃埋同處唯兄子毛津逃匿于尼寺瓦舍即姧一二尼於是一尼嫉妬令顯圍寺將挿乃出之入畝傍山因以探山毛(?)走無所入刺頸而死山中時人歌曰于泥備椰摩虛多智于湏家苫多能(?弥)介茂氣菟能和區吴能虛茂羅勢利祁牟

【息長足日廣額天皇は、渟中倉の太珠敷の天皇の孫で、彦人の大兄の皇子の子だ。母は糠手姫の皇女という。豊の御食炊屋の姫の天皇二十九年に、皇太子の豊聰耳の尊が薨じた。しかしまだ皇太子を立てなかった。三十六年の三月に、天皇が崩じた。九月に、葬儀が終わった。後継天皇がまだ決まらなかった。この時に、蘇我の蝦夷の臣が大臣だった。自分だけで後継天皇を決めようと思った。思ういめぐらすと役人がついてこないのではと恐れて、阿倍の麻呂の臣と話し合って、役人を集めて、大臣の家で饗応した。食事が終わって解散しようとすると、大臣が、阿倍の臣に命令して、役人に「今、天皇は既に崩じたが後継者がいない。もしすぐに決めなければ、恐らく戦乱が起こる。今どの王を後継者にすべきだ。天皇が病気で床につ居ていた日に、田村の皇子に『天下を治めるということは重い責任のある役目だ。元々簡単に言葉にするものではない。お前田村の皇子は、慎重におしはかりなさい。油断してはならない』と詔勅した。次に山背の大兄の王に『お前は、一人で騒ぎ立てるな。必ず役人の言葉に従って、気をつけて行動を誤るな』と詔勅した。それでこれが天皇の遺言だ。今、誰を天皇とするべきだ」と語りかけた。その時、役人達は押し黙って答が無かった。また問いかけても答が無かった。それでもと強く問いかけた。そこで、大伴の鯨の連が進み出て「すでに天皇の遺言に従うだけで今更役人の発言を待たなくてもよい」と言った。阿倍の臣、それで「これはどういう意味だ。その真意を明らかにしろ」と問いかけた。「天皇がどう考えたかは、田村の皇子に 詔して、『天下を治めるということは重い責任のある役目だ。簡単に考えてはならない』と詔勅した。この言葉からいうと、皇位はもう決まっている。誰が異論をはさめるか」と答えた。その時に、采女の臣の摩禮志と高向の臣の宇摩と中臣の連の弥氣と難波の吉士の身刺の、四人の臣下が「大伴の連の言うとおり、更なる異論はない」と言った。許勢の臣の大麻呂と佐伯の連の東人と紀の臣の鹽手の、三人が進み出て「山背の大兄の王が、天皇に良い」と言った。ただ蘇我の倉麻呂の臣一人が、「私はこの場で、簡単に言えない。もう少し考えてから指し示したい」と言った。ここで大臣は、役人が賛同しないので、思いが遂げられないことを知って、退席した。これより前に、大臣は、一人だけの時に境部の摩理勢の臣に「今、天皇が崩じて跡継ぎがいない。誰が天皇になるべきだ」と問いかけた。「名を上げるとしたら山背の大兄を天皇に」と答えた。この時、山背の大兄は、斑鳩の宮に居て、この話し合いを漏れ聞いた。それで三国の王と桜井の臣の和慈古の二人を派遣して、そっと大臣に「聞いたのだけれど、叔父が、田村の皇子を、天皇にしようとしている。私はこれを聞いて、考えてもその理由が解らず居ても立っても居られなかった。出来たら、解りやすく叔父の真意を教えてほしい」と言った。そこで、大臣は、山背の大兄の告白を聞いて、自分だけの考えで答えられなかった。それで阿倍の臣と中臣の連と紀の臣と河邊の臣と高向の臣と采女の臣と大伴の連と許勢の臣達を呼んで、それでねじ曲げて山背の大兄の言葉を上げた。それでまたまた、高官達に「高官のお前たちは、一緒に斑鳩の宮に行って、山背の大兄の王に説明して、『私達がどうして一人だけで簡単に跡取りを決められるのか。ただ天皇の遺言をあげて、役人に伝えるのみだ。役人がみな言うことに、遺言は田村の皇子のようだ。だから跡継ぎになればよい。だれも異を唱えないだろうと言った。これは役人の言葉だ。特段私だけの思いではない。ただし私の思いが有っても、畏まって言うことが出来ない。それで顔を合わせた時に自分から話そう』と言うように」と言った。そこで高官達は大臣の言葉を受けて、一緒に斑鳩の宮に行った。三国の王と桜井の臣が、大臣の言葉を、山背の大兄に伝えた。その時に大兄の王は、高官達に「天皇の遺言をどう思うか」と伝え聞かせた。「私達はその深い考えは知りません。ただし大臣が語った内容から、天皇が病気で床についていた日に、田村の皇子に『軽率に国政がすぐに自分の物になるなどと言ってはいけない。それで、お前、田村の皇子は、謹んで怠りなく言葉にするな』と詔勅した。次に大兄の王に『お前は未熟だから騒ぎ立ててはいけない。必ず役人のいう通りにしなさい』と詔勅した。それで近習の諸々の女王や采女達みんなに知れ渡った。そして大王がよく考えたことだ」と答えた。そこで、大兄の王は、また

「この遺言を、誰が聞いたか」と問いかけた。「私達はそれがうわさ話なので知りません」と答えた。それでさらに、高官達に「大事な叔父を労わろうと、普通の使者ではなく、重臣達を派遣して教へ諭した。これは大変な情けをかけられた。しかし、今、役人達が教えてくれた天皇の遺言は、私が聞いたことと少々違う。私が聞いたのは、天皇が病気で床についたと聞いて、馳せ参じて庭の入口で命令を待った。その時に中臣の連の彌氣が、宮内から出てきて、『天皇の命令で呼びに来た』と言った。それで更に進んで内裏の中に向かった。また栗隈の采女の黒女が、庭の中に迎え入れて、居室に引き入れた。そこに、近習の者の栗下の女王をかしらに、女官の雑用係や侍女達八人と、併せて数十人が、天皇の側に控えていた。また田村の皇子も居た。その時に天皇は重体で、私を見ることすらできなかった。それで栗下の女王が『呼んだ山背の大兄の王が参上しました』と奏上した。それで天皇は床からおきて『私は見識も無いのに永く、帝王のしごとを骨折ってきた。今はもう命運が尽きようとしている。病には勝てない。それで、お前は昔から私の腹心だ。特別に目をかけてかわいがった気持ちは比べ物にならない。国家の根本は私の世だけではなく昔から務めてきた。未熟ではあるが慎みを持って発言しなさい』と詔勅した。その時に仕えた近習達が残らず知った。それで、私のこの深い恵みを受けて、あるいはおそれ、あるいは悲しんだ。飛び跳ねて大喜びするようなことを考えもしない。それで国家や祖先をまつったやしろを守るのは重大なことだと思う。私は見識が少なく未熟だ。どうすればよいだろう。この時に、叔父や役人に相談しようと思った。しかし教えてもらう機会が無く、今まで言わなかっただけだ。私は以前叔父の病の様子を見に、京に向って豊浦寺に居た。その日に、天皇は、八口の采女の侍女を派遣して、『お前の叔父の大臣が、いつもお前の事を思い悩んで、百年経っても、皇位を継げないと言う。それで謹んでよく考えなさい』と詔勅した。これはもうわかりきったことだ。何の疑いも無い。しかし私がどうして天下をむさぼりつくすと言うのか。ただ聞いたことを言うだけだ。それは天地神明に誓って言う。それで、出来たら天皇の遺言を知りたいと思った。また大臣が派遣した役人というのは、もともと、ぶつかり合うだけの矛で間を取り持つように裁可を求める人たちだ。それでよく叔父は伝えなさい」と詔勅した。すでに泊瀬の仲の王は特に中臣の連と河邊の臣を呼んで、「私父子は、ともに蘇我から出たことは国中が知っている。それで、高い山のように大臣の言葉を待ち望んでいる。お願いだから跡取りの事はいい加減なことを言わないでほしい」と言った。則ち三国の王と桜井の臣に命じて、役人と一緒に派遣して、「返事を聞こうと思う」と言った。その時に大臣は、紀の臣と大伴の連を派遣して、三国の王と桜井の臣「先日話した。何も変わらない。しかし、私が敢えてどの王を軽んじどの王を重んじたというのだ」と言った。そこで、数日の後、山背の大兄は、また桜井の臣を派遣して、大臣に「先日の事は、聞いたことを言っただけだ。むしろ叔父が間違っているのでは」と告げた。その日は、大臣が病気で、会って桜井の臣に答えられなかった。翌日に、大臣は、桜井の臣を呼び出して、それで阿倍の臣と中臣の連と河邊の臣と小墾田の臣と大伴の連を派遣して、山背の大兄に「磯城嶋の宮の御宇天皇の世から、今に至るまで、役人は皆 かしこくて、道理に通じている。ただ、今はわたしが未熟で、偶然にも人がいない時に当たってしまって、間違って役人の上になってしまった。それで、天皇を決められない。このことはとても重大なことです。伝えるようなことでは無いので、老臣に鞭打つようだが、直接会って伝えよう。そうすれば遺言を間違えない。私は私心で言っているのではない」と伝えた。大臣が、阿倍の臣と中臣の連に伝えた後、さらに境部の臣に「どの王が天皇になるべきだ」と問いかけた。「これより前に、大臣が自ら問いかけた日に、私はすでに伝え終わっています。今になってどうしてまたいわなければならないのですか」と答えた。それでとても怒って立ち去った。この時に、蘇我氏の同族達が残らず集まって、嶋の大臣の爲に墓を造って、墓所に席順に並んで控えた。ここに摩理勢の臣が、墓所の小屋を壊して、蘇我の田舎の家に引きこもって、出仕しなかった。その時に大臣は不満に思って、身狹の君の勝牛と錦織の首の赤猪を派遣して、「私はお前が言うことが間違いと知っているが、干支が一回りも違う者に対する礼儀があるので、傷つけられない。ただし他の人が悪くてお前が正しければ私はきっと他の人に従わないでお前に従う。もし他の人が正しくてお前が間違っていたら、私はお前に背いて他の人に従うだろう。これで、お前が従わないことが有ったら、私は、お前と傷つけあう。そうすると国がまた乱れる。そうしたら私達二人が国を滅ぼしたとずっと言われるだろう。これは後世まで語り継がれる悪名だ。お前は謹んで反逆を考えてはならない」と諭した。それなのにまだ従わないで、ついに斑鳩に赴いて、泊瀬の王の宮に留まった。そこで、大臣は益々怒って、役人を派遣して、山背の大兄に「この摩理勢は、私に背いて、泊瀬の王の宮に隠れた。お願いだから、摩理勢を貰い受けて、その理由を調べたいと思う」と伝えた。そこで大兄の王は「摩理勢は元々天皇が好ましく思っていた。それで少しの間来ているだけだ。叔父の考えに反対していようか。お願いだから傷つけないでほしい」と答えた。それで摩理勢に「お前は、先王の恩を忘れないで、来てくれたのはとてもうれしい。しかしお前一人のために、天下が乱れる。また先の王が死に臨んで、諸子達に『諸々の悪い事はするな。諸々の善行を行え』と言った。私はこの言葉を聞いて、永遠の戒めとした。これで、私の思い道理にならなくても、

我慢して恨んだりしない。また私の叔父に逆らうことは出来ない。頼むから、今からは、気兼ねなく考えを変えなさい。皆に従って逃げてはいけない」と言った。この時に、高官達は、また摩理勢の臣に「大兄の王の命令に逆らってはならない」と諭した。そこで、摩理勢の臣は、帰るところが無かった。それで泣き叫んで帰って、家に十日余りいた。泊瀬の王は急に病気で薨去した。それで摩理勢の臣は「私は生きていても頼る人がいない」と言った。大臣は、境部の臣を殺そうとして、

軍を興して派遣した。境部の臣は、軍隊がやってくると聞いて、子の兄弟の間の子の阿椰を率いて、門に出て床几に座って待った。その時に軍がやって来て、それで来目の物部の伊區比に命令して首をしめて殺した。父子共に死んだ。それで同じ所に埋めた。ただし兄にあたる毛津だけ、尼寺の瓦工房に逃て隠れた。それで一・二人の尼を姦淫した。それで、一人の尼が嫉妬して露顕して、寺を取り囲んで捕えようとした。それで出でてきて畝傍の山に逃げ込んだ。それで山を探し回った。毛津は逃げ場所がなくなって、頚を刺して山中で死んだ。当時の人は歌った()

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