前回の検証が長くなったので続きを検証する。
皇祖母は孝徳天皇前紀「奉號於豐財天皇曰皇祖母尊以中大兄爲皇太子」と皇極天皇が皇祖母で天智天皇を皇太子にしたと記述し、続いて「天豐財重日足姫天皇四年爲大化元年」、白雉五年「皇太子母奉皇祖母尊遷居倭河邊行宮」、斉明天皇前紀「稱天豐財重日足姫天皇曰皇祖母尊」、斉明天皇元年「皇祖母尊即天皇位於飛鳥板盖宮」、皇極天皇二年「吉備嶋皇祖母命薨」、天智天皇三年「嶋皇祖母命薨」と記述されている。
すなわち、この皇祖母は皇極天皇の事で、白雉5年に皇太子が皇祖母を奉り、斉明元年に天皇に返り咲き、皇極3年すなわち天智3年、『野中寺銅造弥勒菩薩半跏思惟像本像台座の框」「丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と666年重病だったことを示している。
なので、乙巳の変→孝徳即位・天智皇太子→皇極と言うことで、皇極は大化改元としているが白雉改元を行ったことを示し、吉備嶋は皇極天皇の皇極天皇即位前紀「母曰吉備姫王」と吉備姫のこと、茅渟王が舒明天皇でその妻が皇極天皇で皇極天皇の母も吉備姫で、茅渟王の母は『古事記』に「漢王之妹大俣王」と記述され、漢王の宮の住人達のようだ。
そして、蘇我氏は母が物部氏で『舊事本紀』「弟物部守屋大連公子日弓削大連・・・妹物部連公布都姫夫人字御井夫人・・・倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人」と弓削大連の妹で崇峻天皇の時に夫人となったが、崇峻天皇の夫人ではなく用明天皇の夫人で、崇峻天皇は用明天皇とともに敏達天皇に含まれ、敏達天皇末の5年間が崇峻天皇の期間で、「四年夏四月壬子朔甲子葬譯語田天皇於磯長陵是其妣皇后所葬之陵也」が2代目敏達天皇が崩じ、用明天皇が即位、それが、推古天皇前紀「渟中倉太玉敷天皇之皇后卅四歳渟中倉太珠敷天皇崩卅九歳當于泊瀬部天皇五年」と用明天皇の在位期間が無い理由だ。
なので、大臣を私授された入鹿の弟が御井夫人の孫で、入鹿も「物部鎌媛大刀自連公・・・宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」と物部氏の皇子で、この私授は皇極紀を書いた俀国にとっては私授で倭国では公授、大臣を任命するのは倭国王で日本国はもと倭国である。
そして、入鹿は俀国の王位継承に口を挟んで『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』「上宮法皇枕病弗悆」と法興帝上宮王の跡継ぎではなく舒明天皇二年「蘇我嶋大臣女法提郎媛生古人皇子」と蝦夷の甥を王位に就任させようとしたのである。
そして、蘇我氏の部下たちの役職は小德・大仁と俀国の配下達で、斉明天皇四年「左大臣巨勢徳大臣薨」、推古天皇十一年「新羅大將軍來目皇子薨之其臨大事而不遂矣甚悲乎仍殯于周芳娑婆乃遣土師連猪手令掌殯事」と記述されているので、639年以降658年までの記事と思われ、餘豊が人質で日本にいるので山背王の死は655年以降658年までの間の事のようだ。
『日本書紀』慶長版は
「十一月丙子朔蘇我臣入鹿遣小德巨勢德太臣大仁土師娑婆連掩山背大兄王等於斑鳩於是奴三成與數十舍人出而拒戰土師娑婆連中箭而死軍衆恐退軍中之人相謂之曰一人當千謂三成歟山背大兄仍取馬骨投置內寢遂率其妃幷子弟等得間逃出隱膽駒山三輪文屋君舍人田目連及其女菟田諸石伊勢阿部堅經從焉巨勢德太臣等焼斑鳩宮灰中見骨誤謂王死解圍退去由是山背大兄王等四五日間淹留於山不得喫飲三輪文屋君進而勸曰請移向於深草屯倉從茲乗馬詣東國以乳部爲本興師還戰其勝必矣山背大兄王等對曰如卿所噵其勝必然但吾情冀十年不役百姓以一身之故豈煩勞萬民又於後世不欲民言由吾之故喪巳父母豈其戰勝之後方言大夫哉夫損身固國不亦大夫者歟有人遙見上宮王等於山中還噵蘇我臣入鹿入鹿聞而大懼速發軍旅述王所在於髙向臣國押曰速可向山求捉彼王國押報曰僕守天皇宮不敢出外入鹿即將自往于時古人大兄皇子喘息而來問向何處入鹿具說所由古人皇子曰鼠伏穴而生失穴而死入鹿由是止行遣軍將等求於膽駒竟不能覔於是山背大兄王等自山還入斑鳩寺軍將等即以兵圍寺於是山背大兄王使三輪文屋君謂軍將等曰吾起兵伐入鹿者其勝定之然由一身之故不欲傷殘百姓是以吾之一身賜於入鹿終與子弟妃妾一時自經倶死也于時五色幡蓋種種伎樂照灼於空臨垂於寺衆人仰觀稱嘆遂指示於入鹿其幡蓋等變爲黒雲由是入鹿不能得見蘇我大臣蝦夷聞山背大兄王等揔被亡於入鹿而嗔罵曰噫入鹿極甚愚癡專行暴惡伱之身命不亦殆乎時人說前謠之應曰以伊波能杯伱而喩上宮以古佐屢而喩林臣以渠梅野倶而喩焼上宮以渠梅拖伱母陀礙底騰褒羅栖柯麻之之能鳴膩而喩山背王之頭髮斑雜毛似山羊又曰棄捨其宮匿深山相也是歲百濟太子餘豊以蜜蜂房四枚放養於三輪山而終不蕃息」
【十一月の丙子が朔の日に、蘇我の臣の入鹿が、小徳の巨勢の徳太臣と大仁の土師の娑婆の連を、山背の大兄の王達を襲いに斑鳩へ派遣した。そこで、しもべの三成と、数十人の護衛が出てきて防戦した。土師の娑婆の連は、矢が命中して死んだ。兵士たちは恐れて退却した。兵士の一人が、「一騎当千というのは三成のことだ」と噂した。山背の大兄が、それで馬の骨を取って、寝床に投入れておいた。それで妃や子弟達を連れて、すきを狙って逃げ出して、膽駒の山に隱れた。三輪の文屋の君と舍人の田目の連とその娘の菟田の諸石と伊勢の阿部の堅經が従った。巨勢の徳太臣達が、斑鳩宮を焼いた。灰の中に骨を見つけて、間違って王が死んだと言って、囲みを解いて退却した。これで、山背の大兄の王達は、四五日の間、山に潜んで、飲食が出来なかった。三輪の文屋の君は、近づいてきて「お願いだから、深草の屯倉に移って、馬に乗って、東国に行って、乳部を本拠に、軍を起こして戻って戦いましょう。きっと勝てます」と勧めた。山背の大兄の王達は「あなたが言う通りにすれば、きっと勝てるでしょう。ただし心底願うのは、十年も百姓を戦に使いたくない。一人だけの為に、どうして万民を煩わせようか。また、後世に人民をただ私のせいで自分の父母が死んだと言われたくない。それでどうして戦いに勝った後で、本当に立派な男だと言えるのか。自分の身を棄てて国を団結させることが立派な男でないか」と答えた。人がいて遠くから上宮の王達がを山中に居ると見ていた。帰って蘇我の臣の入鹿に教えた。入鹿は、それを聞いてとても怯えた。直ぐに軍隊を整えて、王が居る所を高向の臣の国押に教えて「直ぐに山に向ってあの王を探して捕えてきなさい」と言った。国押は「私は天皇の宮を守っているので、外に出れません」と報告した。入鹿はそれで自分で向かおうとした。その時に、古人の大兄の皇子が、息をゼイゼイ言わせてやって来て「何処行くのか」と問いかけた。入鹿は、詳しく経緯を説明した。古人の皇子は「鼠は穴の中で這いつくばって這いつくばって生き、穴を失うと死んでしまう」と言った。入鹿は、それで、行くのを止めた。将軍達を派遣して、膽駒を探した。とうとう探し出せ無かった。そこで、山背の大兄の王達は、山から帰って、斑鳩の寺に入った。將軍達は、兵で寺を囲んだ。そこで、山背の大兄の王は、三輪の文屋の君が将軍たちに「私は、兵を率いて入鹿を伐てば、勝つに決まっている。しかし一人のために、百姓を傷つけ殺したくは無い。だから、私の体一つぐらい入鹿にくれてやる」と言わせて、とうとう子弟と妃や妾と一度に首を括って一緒に死んだ。その時に、五色の幟と日除けが、種々の仮面劇のように、空で光り輝き、寺に当たっていた。皆は天を仰いで嘆いて、入鹿が殺したと言った。空に見えた幟と日除けが、黒い雲に変わった。それで、入鹿はそれを知らなかった。蘇我の大臣の蝦夷は、山背の大兄の王達が、皆入鹿に亡されたと聞いて、「ああ、入鹿よ、なんと愚かで手荒い事をしてしまったのだ。お前の命が心配だ」と怒り罵った。当時の人は、以前の風刺歌に「『伊波能杯伱』を、上宮に喩え。『古佐屢』を、林臣に喩え。『渠梅野倶』を、上宮を焼くに喩え。『渠梅多伱母多礙底騰裒囉栖歌麻之之能烏膩』を、山背の王の頭髪がまだらで山羊に似ていることを喩え。またその宮を棄てて深い山に隠れたためだ」と答え示した。この歳に、百済の太子の余豊が、蜜蜂の巣四枚を、三輪の山に放って養った。しかし繁殖できなかった。】とあり、十一月丙子朔は10月30日で10月が小の月なら標準陰暦と合致する。
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