2020年9月28日月曜日

最終兵器の目 皇極天皇6

 『日本書紀』慶長版は

三年春正月乙亥朔以中臣鎌子連拜神祗伯再三固辭不就稱疾退居三嶋于時輕皇子患脚不朝中臣鎌子連曾善於輕皇子故詣彼宮而將侍宿輕皇子深識中臣鎌子連之意氣髙逸容止難犯乃使寵妃阿倍氏淨掃別殿髙鋪新蓐靡不具給敬重特異中臣鎌子連便感所遇而語舍人曰殊奉恩澤過前所望誰能不使王天下耶舍人便以所語陳於皇子皇子大悅中臣鎌子連爲人恵正有匡濟心乃憤蘇我臣入鹿失君臣長幼之序挾社稷之權歷試接王宗之中而求可立功名哲主便附心於中大兄䟽然未獲展其幽抱偶預中大兄於法興寺槻樹之下打毱之侶而候皮鞋隨毱脱落取置掌中前跪恭奉中大兄對跪敬執自茲相善倶述所懷既無所匿復恐他嫌頻接而倶手把黃卷自學周孔之教於南淵先生所遂於路上往還之間並肩潛圖無不相協於是中臣鎌子連議曰謀大事者不如有輔請納蘇我山倉田麻呂長女爲妃而成婚姻之眤然後陳說欲與計事成功之路莫近於茲中大兄聞而大悅曲從所議中臣鎌子連即自往媒要訖而長女所期之夜被偸於族由是倉山田臣憂惶仰臥不知所爲少女恠父憂惶就而問曰憂悔何也父陳其由少女曰願勿爲憂以我奉進亦復不晩父便大悅遂進其女奉以赤心更無所忌中臣鎌子連舉佐伯連子麻呂葛城稚犬養連網田於中大兄曰云云三月休留産子於豊浦大臣大津宅倉倭國言項者菟田郡人押坂直(闕名)將一童子欣遊雪上登菟田山便看紫菌挺雪而生髙六寸餘滿四町許乃使童子採取還示隣家捴言不知且疑毒物於是押坂直與童子煮而食之大有氣味明日往見都不在焉押坂直與童子因喫菌羹無病而壽或人云蓋俗不知芝草而妄言菌耶夏六月癸卯朔大伴馬飼連獻百合華其莖長八尺其本異而末連

三年の春正月の乙亥が朔の日に、中臣の鎌子の連を神祇の頭に指名したが、何度も辞退して就任せず、病気だと言って三嶋に退いていた。その時に、軽の皇子が、脚を患って朝廷に出仕出来なかった。中臣の鎌子の連は、昔から軽の皇子と懇意だった。それでその宮に行って、寝所近くで看病した。軽の皇子は、とても中臣の鎌子の連の意識が高く秀逸で立ち居振る舞いは決まりを破ることが出来ないと解って、それで寵愛の妃の阿倍氏を使いって、ちがう御殿をきれいに掃除して、新しい敷物を高く敷いて、行き届かないことが無いくらい派手にした。敬い厚遇して特別扱いだった。中臣の鎌子の連は、その待遇に心が動いて、護衛に「おかげを持ちましてこの上ない思いです。主人以外に誰が天下の王となれましょう」と語った。護衛は、それで言葉通りに皇子に言った。皇子はとても喜んだ。中臣の鎌子の連は、人となりはまごころを尽くして間違いが無く、

悪をただして乱れを失くそうとする気持ちが有った。それは、蘇我の臣の入鹿が君主と臣下の間、年長者と年少者の間で当然守るべき秩序を失くし、国を窺ってさしはさもうと企て、繫いできた王統に加わろうと、手柄を立てて求めていたからだ。それで、力ある主を探して、中の大兄につこうと決めたが、親しくないのでまだその心の中の思いを言えないでいた。たまたま中大兄が法興寺のケヤキの樹の下で中間と毬打ちをして、革靴が毬と一緒に脱げ落ちてしまって、それを手に持って、進み寄って跪き恭しく渡した。中大兄は、向き合って跪いて敬意をもって受け取った。これで、仲良くしあって、思うことをありったけ言い合った。それで、隠し事がなくなった。後で他人が頻繁に接していると嫌がられることを恐れて、一緒に書物を手にして周公や孔子の教えを南淵(?漢人請安・?坂田寺)先生の所で学んだ。その行き来の道すがらに、肩を並べて隠れて相談しても、纏まらないことが無かった。そこで、中臣の鎌子の連が「政権の転覆をしようとするなら、協力者があった方がいい。お願いだから、蘇我の倉の山田麻呂の長女を妃にして、姻戚関係になりましょう。そうした後で説得して、一緒に転覆を謀りましょう。成功するにはこれが一番近道だ」と願った。中大兄は、それを聞いてとても喜んで、入りくんで細かい計画に従った。中臣の鎌子の連は、それで自分で出かけて取り持ち話がついた。それなのに長女との約束の夜に、一門の者にとられた。これで、倉の山田の臣は憂い慌てて、寝込んでしまって成す術が無かった。少女は、父の苦しんでいるよう様子を怪しんで、傍に座って「何を思い悩んでいるのですか」と問いかけた。父はその理由を述べた。少女は「お願いだからくよくよしないでください。私を差し上げればまだ遅くないでしょう」と言った。父は、それでとても喜んで、その娘を進上した。姫は飾りのない真心を込めて仕え、何でも行った。中臣の鎌子の連と佐伯の連の子麻呂と葛城の稚犬養の連の網田を中大兄に中間に推薦して言って云云。三月に、梟が豊浦の大臣の大津の邸宅の倉に子産んだ。倭国で「このごろは、菟田の郡の人で押坂の直が一人の童子をつれて、雪の上で嬉しそうに遊んでいた。菟田の山に登って、それで紫のキノコが雪を押し分けて生えていた。高さは六寸余だった。四町(200m四方)位にいっぱい生えていた。それで童子が採って、帰って隣の家に見せた。皆も、『知らない』と言った。それで毒キノコと疑った。それで、押坂の直と童子とが、煮て食べた。とても風味があっておいしかった。翌日に行ってみると、何もなかった。押坂の直と童子とが、キノコ汁を食べてから、無病息災だ」と言った。ある人が「きっと、普通の人は霊芝ということを知らないで適当にキノコと言ったのだろうか」と言った。夏六月の癸卯が朔の日に、大伴の馬飼の連が、百合の花を献上した。その茎の長が八尺もあった。その根は別々で上のほうはつながっていた。】とあり、三年春正月乙亥朔は2年12月30日で12月が小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

『藤氏家伝』に「大臣以豐御炊天皇廿二年歳次甲戌生於藤原之第」と『日本書紀』に従った614年生まれと記述がされているが、「崗本天皇御宇之初以良家子簡授錦冠令嗣宗業固辭不受歸去三島之別業」と舒明天皇のはじめに舒明天皇の即位時の活躍としていて、『日本書紀』上では629年では15歳と若すぎ、『日本書紀』のこの記事は皇極3年だが皇極天皇の検証結果からは652年が対応する。

すなわち、『藤氏家伝』は『日本書記』に準じているので、年齢には疑問が残るが、舒明天皇の即位時、鎌足に功績があって錦冠が与えられ神祇の棟梁すなわち神官の長官に任命され、「俄而崗本天皇崩皇后即位」とこの時に舒明天皇が崩御して皇后の皇極天皇が即位した。


そして、「後崗本天皇二年歳次癸卯冬十月宗我入鹿與諸王子共謀」と『日本書紀』では643年の事件が発生するのだが、皇極天皇が後崗本天皇と孝徳天皇と同一視して矛盾しており、「白鳳五年・・・其大綿冠内臣中臣連功侔建内宿禰位未允民之望超拝紫冠」と665年に紫冠を授かったが「俄而天萬豐日天皇已厭萬機登遐白雲」と孝徳天皇が崩御した記述される。

白鳳5年を白雉5年とされるがやはり655年斉明天皇元年で、『日本書紀』どおりだと乙巳の変から10年も経ってから褒美と奇妙で、その後斉明天皇の記事と言われているが、「十四年皇太子攝政」と斉明天皇は7年しか無いのに14年と記述され、14年も在位したのは舒明天皇しかなく、天智天皇が摂政なのだから、舒明(岡本宮)14年は665年に相当することになる。


0 件のコメント:

コメントを投稿