2020年9月16日水曜日

最終兵器の目 巻第二十四  皇極天皇1

  『日本書紀』慶長版は

天豊財重日足姫天皇渟中倉太珠敷天皇曾孫押坂彥人大兄皇子孫茅渟王女也母曰吉備姫王天皇順考古道而爲政也息長足日廣額天皇二年立爲皇后十三年十月息長足日廣額天皇崩元年春正月丁巳朔辛未皇后即天皇位以蘇我臣蝦夷爲大臣如故大臣兒入鹿自執國政威勝於父由是盜賊恐懾路不拾遺乙酉百濟使人大仁阿曇連比羅夫從筑紫國乗驛馬來言百濟國聞天皇崩奉遣吊使臣隨吊使共到筑紫而臣望仕於葬故先獨來也然其國者今大亂矣二月丁亥朔戊子遣阿曇山背連比良夫草壁吉士磐金倭漢書直縣遣百濟吊使所問彼消息吊使報言百濟國主謂臣言塞上恒作惡之請付還使天朝不許百濟吊使傔人等言去年十一月大佐平智積卒又百濟使

人擲崐崘使於海裏今年正月國主母薨又弟王子兒翹岐及其母妹女子四人內佐平岐味有髙名之人卌餘被放於嶋壬辰髙麗使人泊難波津丁未遣諸大夫於難波郡撿髙麗國所貢金銀等幷其獻物使人貢獻既訖而諮云去年六月弟王子薨秋九月大臣伊梨柯湏彌弑大王幷殺伊梨渠世斯等百八十餘人仍以弟王兒爲王以已同姓都湏流金流爲大臣戊申饗髙麗百濟於難波郡詔大臣曰以津守連大海可使於髙麗以國勝吉士水鶏可使於百濟以草壁吉士真跡可使於新羅以坂本吉士長兄可使於任那庚戌召翹岐安置於安曇山背連家辛亥饗髙麗百濟客癸丑髙麗使人百濟使人並罷歸三月丙辰朔戊午無雲而雨

【天豐財重日足姫天皇は、渟中倉太珠敷天皇の曽孫、押坂彦人大兄皇子の孫で、茅渟王の娘だ。母を吉備姫王という。天皇は、昔どおりに筋道を考えて政治を遂行した。息長の足日廣額の天皇の二年に、皇后になった。十三年の十月に、息長の足日廣額の天皇が崩じた。元年の春正月の朔が丁巳の辛未の日に、皇后は、天皇に即位した。蘇我の臣の蝦夷を大臣としたのは前のとおりだ。大臣の子の入鹿は、自ら国の政策を執行して、勢力は父に勝っていた。それで、盜賊が恐れ怯えて、道に落ちていた物すら拾わなかった。乙酉の日に、百済の使者の大仁の阿曇の連の比羅夫が、筑紫の国から、早馬に乗ってやって来て「百済国が、天皇の崩御を聞いて、弔使を奉遣した。私は、弔使を引き連れて、一緒に筑紫に着いた。そして私は葬礼の手伝いをしたいと思って、先に一人でやってきた。それにあの国は、今、大乱が起こっている」と言った。二月の朔が丁亥の戊子の日に、阿曇の山背の連の比羅夫と草壁の吉士の磐金と倭の漢の書の直縣を、百済の弔使の所に派遣して、百済の消息を調べさせた。弔使が「百済国の主は、私に言うのに、『塞上はいつも悪さをするが使者と一緒に帰るよう願っても、天皇は許さないだろう」と報告した。百済の弔使の護衛の武官達が「去年の十一月に、大佐平の智積が死んだ。また百済の使者の、崐崘の使者を海の中に投げつけた。今年の正月に、国の主の母も薨じた。また弟の王子たち、子の翹岐とその母妹の女子四人と、内佐平の岐味と、高名の人四十人余が、嶋に流刑された」と言った。壬辰の日に、高麗の使者が、難波津に停泊した。丁未の日に、諸々高官達を難波の郡に派遣して、高麗国の貢上された金銀等、あはせてその献上された物を見分した。使者は、貢献の儀礼を終了して、「去年の六月に、第王子が薨じた。秋九月に、大臣の伊梨柯須彌が、大王を殺し、あはせて伊梨渠世斯達百八十余人を殺した。それで弟王子の子を王とした。自分と同族の都須流金流を大臣とした」と話した。戊申の日に、高麗と百済の客を難波の郡で饗応した。大臣に「津守の連の大海を高麗の使者にしなさい。国勝の吉士の水鷄を百済の使者にしなさい。草壁の吉士の眞跡を新羅の使者にしなさい。坂本の吉士の長兄を任那の使者にしなさい」と詔勅した。庚戌の日に、翹岐を呼んで、阿曇の山背の連の家で休ませた。辛亥の日に、高麗と百済の客を饗応した。癸丑の日に、高麗の使者と百済の使者が、一緒に帰った。三月の朔が丙辰の戊午の日に、雲が無いのに雨が降った。】とあり、標準陰暦と合致する。

天豐財重日足姫は『古事記』に「日子人太子娶鹿(庶)妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇・・・又娶漢王之妹大俣王生御子知奴王」と田村皇子の従弟が知奴王でその娘が皇極天皇で、知奴王は漢王の妹の大俣王の子すなわち漢王は俀国王で知奴王も『古事記』では俀国王で皇極天皇はその娘である。

そして、年齢的に考えれば、この漢王は磐井の子の東漢直駒の可能性があり、「偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻」と嶋大臣の娘を妻としていて、彦人や馬子の聖徳太子と同年代で630年頃に天皇になれない年齢すなわち20歳未満で、天智天皇が664年が16歳なので、年齢から考えても知奴王の妻が妥当で、名前が天豊なのだから俀国と倭国の名を冠しているが、子の天智天皇が豊を冠せず、皇極天皇も天氏で、まだ、日本国ではなく倭国王の天皇となったのだから豊が付加されているのだと思われる。

『三国史記』656年義慈王十六年に「佐平成忠或云淨忠極諫王怒囚之獄中由是無敢言者成忠瘐死臨終上書曰忠臣死不忘君願一言而死」と別名で呼ばれる佐平が死んでいて、十七年「春正月拜王庶子四十一人爲佐平」と皇子を降格した。

ところが、高句麗は「寶臧王諱臧或云寶臧以失國故無諡建武王弟大陽王之子也建武王在位第二十五年蓋蘇文弑之」と642年の記事を挿入し、642年の前年に『船王後墓誌』の「阿須迦天皇之末」、『上宮聖徳法王帝説』の「嶋大臣薨卅五年夏六月辛丑とあり、蘇我大臣が阿須迦天皇と考えられる天皇の後を継いだ皇極天皇と、おそらく俀国の皇極天皇等の複数の王の事績が挿入されている。


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