『日本書紀』慶長版は
「三年春二月辛卯朔庚子掖玖人歸化三月庚申朔百濟王義慈入王子豊章爲質秋九月丁巳朔乙亥幸于攝津國有間温湯冬十二月丙戌朔戊戌天皇至自温湯四年秋八月大唐遣髙表仁送三田耜共泊于對馬是時學問僧靈雲僧旻及勝鳥養新羅送使等從之冬十月辛亥朔甲寅唐國使人髙表仁等泊于難波津則遣大伴連馬養迎於江口舩丗二艘及鼓吹旗幟皆具整飾便告髙表仁等曰聞天子所命之使到于天皇朝迎之時髙表仁對曰風寒之日飾整舩艘以賜迎之歡愧也於是令難波吉士小槻大河內直矢伏爲導者到館前乃遣伊岐史乙等難波吉士八牛引客等入於館即日給神酒五年春正月已卯朔甲辰大唐客髙表仁等歸國送使吉士雄摩呂黑摩呂等到對馬而還之六年秋八月長星見南方時人曰篲星七年春三月篲星𢌞見于東夏六月乙丑朔甲戌百濟遣達率柔等朝貢秋七月乙未朔辛丑饗百濟客於朝是月瑞蓮生於剱池一莖二花八年春正月壬辰朔日蝕三月悉劾姧采女者皆罪之是時三輪君小鷦鷯苦其推鞫刺頸而死夏五月霖雨大水六月災岡本宮天皇遷居田中宮秋七月已丑朔大派王謂豊浦大臣曰群卿及百寮朝參巳懈自今以後卯始朝之巳後退之因以鍾爲節然大臣不從是歲大旱天下飢之」
【三年の春二月の朔が辛卯の庚子の日に、掖玖の人が帰化した。三月の庚申が朔の日に、百済の王の義慈が、王子の豊章を人質に入れた。秋九月の朔が丁巳の乙亥の日に、摂津国の有間温泉に行幸した。冬十二月の朔が丙戌の戊戌の日に、天皇が、温泉から帰った。四年の秋八月に、大唐が高表仁を派遣して、三田耜を送ってきた。一緒に対馬に停泊した。この時に、学問僧の靈雲と僧旻と勝の鳥養が、新羅の送使達についてきた。冬十月の朔が辛亥の甲寅の日に、唐国の使者の高表仁達が、難波津に停泊した。それで大伴の連馬養を派遣して、港の入口で迎えた。船が三十二艘で鼓と吹と旗印を、皆お揃いに飾った。それで高表仁達に「天子の命令の使者が、天皇の朝廷にやってきたと聞いて迎えに来た」と告げた。その時、高表仁が「風が冷たい時期に、たくさんの船を揃えて飾って、迎えてもらって、嬉しい限りです」と答えた。そこで、難波の吉士の小槻と大河内の直の矢伏に命令して、先導者として、館の前に着いた。それで伊岐の史の乙等と難波の吉士の八牛を派遣して、客達を引き連れて館に入った。その日に、迎えのお神酒の儀礼を行った。五年の春正月の朔が己卯の甲辰の日に、大唐の客の高表仁達が、国に帰った。送使の吉士の雄摩呂と黒麻呂達が、対馬まで送ってかえって行った。六年の秋八月に、足の長い星が南方に見えて当時の人は彗星と言った。七年の春三月に、彗星が戻って来て東方に見えた。夏六月の朔が乙丑の甲戌の日に、百済が、達率の柔達を派遣して、朝貢した。秋七月の朔が乙未の辛丑の日に、百済の客を朝廷で饗応した。この月に、めでたいしるしの蓮が生えた。一つの茎に二つの花が咲いた。八年の春正月の壬辰が朔の日に、日食があった。三月に、残らず、采女と姦淫した者を取り調べて、全て罰した。この時に、三輪の君の小鷦鷯が、その取り調べられたとを苦に、頚を刺して死んだ。夏五月に、雨が幾日も降り続いて洪水があった。六月に、岡本の宮が火事になった。天皇は、田中の宮に遷都した。秋七月の己丑が朔の日に、大派の王が、豊浦大臣に「官僚や役人が、朝から出仕する決まりをもう怠けている。これ以後は、朝6時に朝廷に出仕して10時間後に帰りなさい。それで節目を鍾で知らせなさい」と言った。しかし大臣が守らなかった。この歳は、とても日照り続きで、国中が飢饉となった。】とあり、七年七月乙未朔は7月2日で6月は小の月で7月は大の月なので、6月が大の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。
豊章が人質になった記事は、631年ではなく、『三国史記』に655年義慈王十五年「春二月修太子宫極侈麗立望海亭於王宫南」、659年義慈王十九年「夏四月太子宮雌雞與小雀交遣將侵攻新羅獨山桐岑二城」そして翌660年二十年「迎古王子扶餘豊嘗質於倭國者立之爲王」と皇太子豊章が百済に滞在しないのは655年3月から659年3月までの間なのだから、629年や白雉元年から始まる舒明3年ではなく白雉元年から始まる舒明4年の事で、やはり1年ズレていて、白雉元年から始まる舒明天皇とは異なる651年即位の王の記事なのだろう。
『舊唐書』に貞観五年「遣使献方物太宗矜其通遠勅所司無令歳貢又遣新州刺史高表仁持節往撫之表仁無綏遠之才與王子争禮不宣朝命而還」と631年の記事で、この舒明天皇は628年即位の王、すなわち倭国王が唐使を迎え、『旧唐書』は倭国記事なので、この時倭国とは礼儀を欠いた対応のため決裂し、この時、新羅経由で唐使が来ているように、すでに、唐・新羅と、隋に絶縁された俀国の連合が出来つつあったようだ。
それに対して『舊唐書』654年永徽五年「十二月癸丑倭國獻琥珀碼瑙琥珀大如斗碼瑙大如五斗器」と倭国は唐との関係を修復しようとしたようで、654年すなわち舒明3年に遣使した白雉5年の記事で、実際は白雉3年に「遣大唐押使大錦上高向史玄理」なのだろう。
この大錦上の官位は推古天皇十九年「諸臣服色皆隨冠色各著髻華則大徳小徳並用金大仁小仁用豹尾大禮以下用鳥尾」で、この推古19年は629年即位の推古19年で657年のことである。
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