2020年9月21日月曜日

最終兵器の目 皇極天皇3

 『日本書紀』慶長版は

九月癸丑朔乙卯天皇詔大臣曰朕思欲起造大寺冝發近江與越之丁復課諸國使造舩舶辛未天皇詔大臣曰起是月限十二月以來欲營宮室可於國國取殿屋村然東限遠江西限安藝發造宮丁癸酉越邊蝦夷數千內附冬十月癸未朔庚寅地震而雨辛卯地震是夜地震而風甲午饗蝦夷於朝丁酉蘇我大臣設蝦夷於家而躬慰問是日新羅吊使舩與賀騰極使舩泊于壹岐嶋丙午夜中地震是月行夏令無雲雨十一月朔癸丑大雨雷丙辰夜半雷一鳴於西北角已未雷五鳴於西北角庚申天暖如春氣辛酉雨下壬戌天暖如春氣甲子雷一鳴於北方而風發丁卯天皇御新嘗是曰皇太子大臣各自新嘗十二月壬午朔天暖如春氣甲申雷五鳴於晝二鳴於夜甲午初發息長足日廣額天皇喪是日小德巨勢臣德太代大派皇子而誄次小德粟田臣細目代輕皇子而誄次小德大伴連馬飼代大臣而誄乙未息長山田公奉誄日嗣辛丑雷三鳴於東北角庚寅雷二鳴於東而風雨壬寅葬息長足日廣額天皇于滑谷岡是日天皇遷移於小墾田宮甲辰雷一鳴於夜其聲若裂辛亥天暖如春氣是歲蘇我大臣蝦夷立巳祖廟於葛城髙宮而爲八佾之儛遂作歌曰野麻騰能飫斯能毗稜栖鳴倭柁羅務騰阿庸比拖豆矩梨舉始豆矩羅符母又盡發舉國之民幷百八十部曲預造雙墓今來一曰大陵爲大臣墓一曰小陵爲入鹿臣墓望死之後勿使勞人更悉聚上宮乳部之民役使營兆所於是上宮大娘姫王發憤而歎曰蘇我臣專擅國政多行無禮天無二日國無二王何由任意悉役封民自茲結恨遂取倶亡是年也太歲壬寅

【九月の朔が癸丑の乙卯の日に、天皇は、大臣に「私は、大寺を建立したいと思う。近江と越の働き盛りを集めなさい」と詔勅した。また諸国に課税して、船舶を造らせた。辛未の日に、天皇は、大臣に「この月に人を集めて十二月から期限もうけて、宮室を作らせたい。国々に御殿の資材をとらせよう。それで東は遠江をまで、西は安芸をまで、宮を造る働き盛りを集めなさい」と詔勅した。癸酉の日に、越の辺境の蝦夷が、数千人が帰順した。冬十月の朔が癸未の庚寅の日に、地震があって雨が降った。辛卯の日に、地震があった。この夜、地震があって風が吹いた。甲午の日に、蝦夷を朝庭で饗応した。丁酉の日に蘇我の大臣が、蝦夷に家を造って、自ら慰労して問いただした。この日に、新羅の弔使の船と登り極めた新天皇の即位の祝賀の使者の船とが、壹岐の嶋に停泊した。丙午の日の夜中に、地震があった。この月に、夏の行事を行った。雲が無いのに雨が降った。十一月の朔が壬子の癸丑の日に、大雨が降って雷が鳴った。丙辰の日の夜半に、雷が一度、西北で鳴った。己未の日に、雷が五度、西北で鳴った。庚申の日に、天候が暖かくて春の季節のようだった。辛酉の日に、雨が降った。壬戌の日に、天候が暖かくて春の季節のようだった。甲子の日に、雷が一度、北の方で鳴って、強風が吹いた。丁卯の日に、天皇が新嘗を行った。この日に、皇子と大臣が、各々が自分で新嘗をした。十二月の壬午が朔の日に、天候が暖かくて春の季節のようだった。甲申の日に、雷が、五度昼間に鳴って、二度夜に鳴った。甲午の日に、はじめて息長の足日廣額の天皇の葬儀を行った。この日に、小徳の巨勢の臣の徳太が、大派の皇子に代って弔辞を述べた。次に小徳の粟田の臣の細目が、輕の皇子に代って弔辞を述べた。次に小徳の大伴の連の馬飼が、大臣に代って、弔辞を述べた。乙未の日に、息長の山田公が、皇太子の弔辞を述べた。辛丑の日に、雷が三度東北で鳴った。庚寅の日に、雷が二度東で鳴って、強風が吹いて雨が降った。壬寅の日に、息長の足日廣額の天皇を滑谷の岡に葬った。是の日に、天皇は、小墾田の宮に遷都した。甲辰の日に、雷が一度夜に鳴る。その音は地が裂けるようだった。辛亥の日に、天候が暖かくて春の季節のようだった。この歳に、蘇我の大臣の蝦夷が、自分の祖廟を葛城の高宮に立て、八列64人の舞を行った。それで歌を作った()あわせて百八十の部の民を集めて、あらかじめに2つの墓を今来に造った。一つを大陵という。大臣の墓とした。一つを小陵という。入鹿臣の墓とした。できたら死んだ後まで人を煩わせることは出来ないと、さらに全ての上宮の乳部の人を集めて、墓所で作業させた。そこで、上宮の大娘姫の王が、怒って「蘇我の臣が、国政をほしいままに振る舞い、無礼な行いがばかりする。天に二つの太陽は無く、国に二人の王はいらない。どうして勝手気ままに民を人に割り当てて使うのか」と嘆いた。それで恨みを持った者を纏めて滅ぼされた。この年は、太歳が壬寅だった。】とあり、九月癸丑朔は8月30日、十一月壬子朔は10月30日で共に前の月が小の月なら標準陰暦と合致し、他も標準陰暦と合致する。

この大寺建設は、前項でも既に記述されているように、639年の舒明天皇十一年「今年造作大宮及大寺則以百濟川側爲宮處」、舒明天皇十一年「百濟川側建九重塔」、645年の大化元年「遣使於大寺喚聚僧尼而」の大寺で、発掘調査で基壇規模から九重塔と考えられており、また、建立が文武天皇で完成しなかったと言われているが、天武天皇十一年「百卅餘人出家於大官大寺」、天武天皇十四年「誦經於大官大寺」、朱鳥元年「則諡觀世音經於大官大寺」、『続日本紀』大宝二年「設齋於四大寺」、大宝三年「遣使四大寺及四天王山田等卅三寺設齋焉」、大宝三年「詔四大寺讀大般若經」、大宝三年「令四大寺讀金光明經」、慶雲二年「宜令五大寺讀金光明經」、慶雲四年「於四大寺設齋焉」と天武天皇は大官大寺で、それ以降は最大5寺が大寺と呼ばれていて、完成しなかったとか焼けたとは書かれていない。

『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』に「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年」と646年に池邊大宮治天下天皇が大病して像を造ったが間に合わず「小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉」と667年に小治田天皇と皇太子天智が奉納したと記述され、これは池辺天皇の皇太子小治田天皇の夫が翌年即位し、すぐに崩じたその宮が小治田で小治田天皇の皇太子、この皇太子は東宮聖王天智ではなく 太子は皇弟でその婦人が皇極天皇だ。

ここでは息長山田公は皇太子が死んだと言っていて、この弔辞もそれぞれ別の王の弔辞のようで、この皇太子は息長の皇子で「息長眞手王女廣姫爲皇后是生一男二女其一曰押坂彦人大兄皇子」と彦人の皇子の茅渟王で、親子同時期に死んだ可能性があり、彦人の子の息長を名乗る舒明天皇も即位後すぐに亡くなり妻が即位した。

彦人が奉納できなかった像を667年に奉納したことを『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』は記述していて、この「遷移於小墾田宮」は647年に即位した小治田天皇彦人の常色元年を挿入した記述とわかり、『日本書紀』では「小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」と彦人の妃が小墾田皇女で、彦人が小墾田に婿入りして宮にしたことが解る。

そして、入鹿が造った陵は石舞台古墳で、この時代は竪穴石棺ではなく横穴石棺で遺骸を埋納していて、墓を荒らすのに土を掘り返す必要が無く、この石舞台古墳は壊されたのではなく造り初めたばかりで造れなくなったことを意味し、皇極天皇元年に乙巳の変があって蝦夷と入鹿が殺されて古墳を完成できなかったということで、667年に「法隆寺金堂薬師如来像」を奉納した天皇の元年で664年がそれにあたり、再登板した小治田天皇だ。


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