2020年9月14日月曜日

最終兵器の目 舒明天皇4

  『日本書紀』慶長版は

九年春二月丙辰朔戊寅大星從東流西便有音似雷時人曰流星之音亦曰地雷於是僧旻僧曰非流星是天狗也其吠聲似雷耳三月乙丒朔丙戌日蝕之是歲蝦夷叛以不朝即拜大仁上毛野君形名爲將軍令討還爲蝦夷見敗而走入壘遂爲賊所圍軍衆悉漏城空之將軍迷不知所知時日暮踰垣欲逃爰方名君妻歎曰慷哉爲蝦夷將見殺謂夫曰汝祖等渡蒼海跨万里平水表政以威武傳於後葉今汝頓屈先祖之名必爲後世見嗤乃酌酒強之飲夫而親佩夫之剱張十弓令女人數十俾鳴弦既而夫更起之取伏仗而進之蝦夷以爲軍衆猶多而稍引退之於是散卒更聚亦振旅焉擊蝦夷大敗以悉虜十年秋七月丁未朔乙丒大風之折木發屋九月霖雨桃李華冬十月幸有間温湯宮是歲百濟新羅任那並朝貢十一年春正月乙巳朔壬子車駕還自温湯乙卯新嘗蓋因幸有間以闕新嘗歟丙辰無雲而雷丙寅大風而雨巳巳長星見西北時旻師曰彗星也見則飢之秋七月詔曰今年造作大宮及大寺則以百濟川側爲宮處是以西民造宮東民作寺便以書直縣爲大匠秋九月大唐學問僧惠隱惠雲從新羅送使入京冬十一月庚子朔饗新羅客於朝因給冠位一級十二月巳已朔壬午幸于伊豫温湯宮是月於百濟川側建九重塔十二年春二月戊辰朔甲戌星入月夏四月丁卯朔壬午天皇至自伊豫便居廐坂宮五月丁酉朔辛刄大設齋因以請惠隱僧令說无量壽經冬十月乙丑朔乙亥大唐學問僧清安學生髙向漢人玄理傳新羅而至之仍百濟新羅朝貢之使共從來之則各賜爵一級是月徙於百濟宮十三年冬十月巳丑朔丁酉天皇崩于百濟宮丙午殯於宮北是謂百濟大殯是時東宮開別皇子年十六而誄之

九年の春二月の朔が丙辰の戊寅の日に、大きな星が、東から西に流れた。それで音が鳴って雷のようだった。当時の人は、「流星の音だ」と言った。また「地鳴りだ」と言った。それで、僧旻僧が「流星ではない。これは天狗だ。吠える声が雷に似ているだけだ」と言った。三月の朔が乙酉の丙戌の日に、日食があった。この歳に、蝦夷が背いて来朝しなかった。それで大仁の上毛野の君の形名に官位を授けて、將軍にして征討させた。返り討ちにあって蝦夷に敗けて、砦に逃げ入った。それで賊に囲まれた。軍隊は残らず抜け落ちるように逃げて城が空になった。將軍はどうすることもできなかった。その時に日が暮れた。垣根を飛び越えて逃げようとした。そこで方名の君の妻が、「なんと嘆かわしい、蝦夷ごときに殺されるとは」と嘆いた。それで夫に「あなたの祖先達は、海原を渡って、萬里を股にかけて、海外の国も平らげて、武勇で鳴らして後世まで響き渡った。今、あなたが先祖の名を汚せば、きっと後世の笑いものになる」と言った。それで酒を酌んで夫に無理やり飲ませた。それで親ら夫の剱を帯て、十の弓を張って、女数十人に命令して弦をかき鳴らした。そうしたら夫も立ち上がって、武器を取って進撃した。蝦夷はそれで、軍隊がまだたくさん残っていると思って、次第に引き下がって行った。そこで、散らばった兵士がまた集まって来て、また勢いある旅団となって、蝦夷を撃って大敗させ、みんな捕虜にした。十年の秋七月の朔日が丁未の乙丑の日に、台風があって木をへし折り家が破壊された。九月に、雨が降り続いて、桃やスモモの花が咲いた。冬十月に、有間の温泉の宮に行幸した。この歳に、百済と新羅と任那が一緒に朝貢した。十一年の春正月の朔が乙巳の壬子の日に、天皇の車が温泉から帰った。乙卯の日に、新嘗を行った。おそらく有間に行幸したため、新嘗を忘れたのか。丙辰の日に、雲も無いのに雷が鳴った。丙寅の日は、暴風雨だった。己巳の日に、尾が長い星が西北に見えた。この時に旻師が「彗星だ。これが現れると飢饉がある」と言った。秋七月に、「今年は、大宮と大寺を造りなさい」と詔勅した。それで百済川の辺を宮を造る予定地にした。ここに、西の人民宮を造り、東の人民は寺を造った。それで書の直の縣を総監督の棟梁とした。秋九月に、大唐の学問僧の惠隱と惠雲が新羅の送使に連れられて京に入った。冬十一月の庚子が朔の日に、新羅の客を朝廷で饗応した。それで冠位の最高位を与えた。十二月の朔が己巳の壬午の日に、伊豫の温泉の宮に行幸した。この月に、百済川の辺に、九重の塔が建った。十二年の春二月の朔が戊辰の甲戌の日に、星が、月にぶつかった。夏四月の朔が丁卯の壬午の日に、天皇は、伊豫から帰って廐坂の宮に居た。五月の朔が丁酉の辛丑の日に、大法会を開いた。それで、惠隱僧を招い、無量寿経を教授させた。冬十月の朔が乙丑の乙亥の日に、大唐の学問僧の清安と学生の高向の漢人の玄理が、新羅経由で帰った。それで、百済と新羅の朝貢の使者が、一緒について来た。そのため各々に爵位の最高位を与えた。この月に、百済の宮に行った。十三年の冬十月の朔が己丑の丁酉の日に、天皇、百済宮で崩じた。丙午の日に、宮の北に祭壇を作った。これを百済の大祭場という。この時に、東宮の開別の皇子、年16歳で哀悼の辞を述べた。】とあり、九年三月乙酉朔は2月30日、十二年四月丁卯朔は3月30日と前の月が共に大の月で小の月なら標準陰暦と合致し、その他は標準陰暦と合致する。

『隋書』の「大業三年・・・明年 上遣文林郎裴淸使於俀国」と608年に来日した裴淸の帰国時に推古天皇十六年「遣於唐國學生倭漢直福因奈羅譯語惠明高向漢人玄理・・・志賀漢人惠隱」と高向玄理が訪中し、640年のその帰国の記事で、『舊唐書』「至二十二年又附新羅奉表以通起居」と貞觀22年648年に新羅に連れ立って訪中しており、これが白雉五年654年の「遣大唐押使大錦上高向史玄理」と考えられる。

大化三年に「制七色一十三階之冠」と647年に制定した官位を冠しての訪中で、この年は「金春秋等送博士小徳高向黒麻呂小山中中臣連押熊來獻孔雀一隻鸚鵡一隻仍以春秋爲質」と官位を叙されておらず、翌年に小徳が大錦上と記述され、俀国は官位を変更した。

それが、「給冠位一級」で、『舊唐書』に「無冠帶・・・佩銀花長八寸左右各數枝以明貴賤等級衣服之制頗類新羅」と倭国には冠帶が無く、地位は等級で服の色が違ったと記述され、皇極天皇二年に「蘇我大臣蝦縁病不朝私授紫冠於子入鹿」と倭国には紫冠がないから俀国を真似て私的に紫冠を被ったことを示している。

そのため、僧旻も皇極天皇四年「沙門旻法師高向史玄理爲國博士」とセットで出現するため、彗星や流星の落下や月に流星がぶつかったなどの記述は650年前後の出来事と考えられ、そして608年に高向玄理と一緒に訪中した惠隱も白雉三年「四月戊子朔壬寅請沙門惠隱於内裏使講無量壽經」と舒明12年と白雉3年が同じ年であることを示しているが、私は白雉3年ではなく白鳳3年663年に挿入すべき記事だった考える。

そして、皇極天皇から天武天皇が記述するのだが、最後の舒明13年は皇極天皇を記述した時に追加した記事で、もし、推古天皇や舒明天皇と同時に記述したのなら、開別皇子という名を舒明2年に記述しないのは奇妙で、すなわち、舒明13年は652年即位の舒明天皇が664年に崩じ、しかも、死亡記事を書かないで死亡したことを意味する。

従って、推古紀は629年から舒明天皇も含めた記事で664年まで記述され舒明紀は664年に663年までを記述して死亡した天皇の記述で、664年10月は天智天皇が皇太子で年齢が16歳だったことを示し、そのため、668年に20歳になったので小墾田宮の天皇が退位して皇位に就いたことを示す。

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