『古事記』では五十鈴姫と五十鈴依姫を同一人物として伊須氣余理比賣と呼び、御毛沼・手研耳が共に妃としているが、手研(くし)耳の説話の可能性が高く、宮主奇稲田姫と同地域の溝橛と玉櫛媛と事代主の神倭王朝を手研耳が継承したと考えられる。
そして、葛城氏の祖の沼河耳が前582年に八井・五十鈴依姫親子のクーデタに協力し、奇日方を加えた三国王が八国を完全に乗っ取って、子の息石耳の妃の三国王奇日方の妹の渟中底姫と研貴彦兄弟が前548年に皇位を奪い、子の常津彦の妃で息石耳の娘の天豐津媛が前510年に皇位を継承したが、皇統の姫が絶え、前475年に天皇の母弟の武石彦奇友背の皇后の葉江の娘の川津媛と太眞稚彦(和知都美)兄弟に皇位を奪われたようだ。
史書には孝昭天皇の姪の世襲足媛と瀛津世襲の兄弟になっているが、この名前は襲名する名と考えられ、剱根の孫の葛城彦の瀛津世襲なら、天皇名である大倭根子と呼ばれる孝霊天皇から葛城氏の天皇なので、孝霊天皇の親でないと理に適わず、孝安天皇の妃も姪の押媛で、世襲足媛の親の忍男は次の世代にも記述される。
尾張氏の髙倉下は天道日女の子、天道は「天道根命爲紀伊國造」と、おそらく、少なくとも崇神以前は紀伊ではなく紀国造の祖で、曲浦出身の珍彦が紀国造の祖で、宇迦王朝の西の入り国を守って、宇迦朝廷を支え、弟猾と椎根津彦の菟田川で活躍した人物の一人と考えられる。
天道日女の子の天村雲の妃は阿俾良依姫で神武天皇の妃の阿比良比賣、奇日方の妃の度美良姫とは三国の奇稲田姫の須賀宮の姫と思われ、天村雲は天皇と姻戚関係となったと考えられる。
顯見(宇津し神)国主の顯見國玉、すなわち、宇迦之御魂は根国の素戔嗚の娘の須世理姫の婿で、「宇迦能山之嶺於底津石根宮柱」と宮を造って王朝を開き、その姫の一人と思われるのが玉依姫で、事代主の妃が各史書で異なり、『舊事本紀』の事代主の妃活玉依姫、『日本書紀』の玉櫛媛と共に姻戚と考えられ、同族と思われる玉依姫の子の御毛沼が『古事記』では葛城氏の始祖と述べている。
宇迦能山の王の子と考えられる、兄猾を倒して、来目歌で「宇陀の高城」と歌うように高城に高木(神)が居て、その配下が高倉下というのはよく合致し、「底津石根宮柱」・宮殿を建てたのは、他に大国主が大国を奪われて「葦原中國」に宮殿を立ててもらい、火瓊々杵が「筑紫日向襲之槵觸二上峯」と高千穂宮を、神武天皇が「畝傍之橿原」に宮殿を建て、その橿原は葛城氏が倭彦と呼ばれた時と考えられ「輕曲峽宮」が合致し、宇迦の宮殿よりかなり後代である。
饒速日と天道神の天道日女の子が神子(みこ)の高倉下、神孫(みま)が天村雲、その妃が阿俾良依姫で子が天忍日女なので、阿俾良依姫の兄弟は天忍日神ということになり、「天忍日命大伴連等祖」・「大伴氏之遠祖日臣」とあるように、阿俾良依姫の兄弟は日臣のちの道臣である。
大伴氏は隠岐国の忍(隠衆)の日臣・壱岐の国神でと思われ、珍彦と同族で大人国の聖と思われ、日本海の海道の隠岐国の国神の道臣の子の高倉下、尾張氏の王の璽の天叢雲劒・草薙劒・韴靈を持つ天村雲が月読の天孫の天忍日神を妃とした尾張氏の天村雲も天氏を引継ぎ、天道日女は道臣の祖、道臣はおそらく吉備の道臣の意味で、390年が元年の神武天皇・応神天皇の時に活躍して道臣と呼ばれた人物と考えられる。
天皇の臣下としての臣の賜姓の最初は仁徳の「小泊瀬造祖宿禰臣賜名曰賢遺臣也」で、土部臣は「即任土部職因改本姓謂土部臣是土部連等主」と連すなわち邑の主を使役し、朝廷の賜姓ではなく、出雲臣も仁徳天皇の時でも出雲臣の祖と出雲臣を賜姓されない淤宇宿禰が出現している。
出雲臣は中臣と同じく、隠岐の国の国神の一人、日臣も同様の隠岐国(周饒国)の官位で、出雲の土師連も賜姓時は土部臣で、『日本書紀』では雄略以前は天皇が賜姓する臣も「使主」を使用していて、賢遺臣と共に賜姓される的戸田宿禰は応神紀に平群木菟宿禰と共に記述、平群木菟宿禰は別の説話で物部大前宿祢と共に記述され、大前宿祢「連公石上穴穂宮御宇天皇御世元為大連」と安康天皇の大連で、臣賜姓の説話は400年代頃の説話と考えられる。
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