2022年4月18日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書・天孫本紀系図のまとめ4

   『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は『天孫本紀』は「・・・五世孫建箇草命健額赤命之子多治比連津守若倭部連葛󠄀木尉直祖孫建斗禾命天戸目命之子此命紀伊國造智名曽妹中名草姫爲妻生六男一女次妙斗米命六人部連等祖六世孫建田背命神服連海部直丹波國造但馬國造等但次建宇那比命此命城嶋連祖節名節姫生二男一女次建多手利命笛連若犬甘連等祖次建弥阿久良命髙屋大分國造等祖次建麻利尼命石作連桒内連小邉縣主等祖次建手和迩命身人部連等祖妹宇那比姫命七世孫建諸隅命此命腋上池心宮御宇天皇御世爲大臣供奉葛󠄀木直祖大諸見足尼女子諸見巳姫生一男妹大海姫命亦名葛󠄀木髙名姫命此命礒城瑞籬宮御宇天皇立爲皇妃誕生一男二女召八坂入彦命次中城入姫命次十市瓊入彦命是一々八世孫倭得玉彦命亦云市大稲日命此命淡海國谷上刀婢爲妻生一男伊我臣祖大伊賀彦女大伊賀姫生四男九世孫弟彦命妹日女命次玉勝山代根古命山代氷主雀部連軽部造蘇冝部首等祖次若都保命五百木部連祖次置部與曽命次彦與曽命」とあり、系図なので訳は省略した。

『古事記』の神武天皇の妃が「阿多之小椅君妹名阿比良比賣」で、『古事記』の神武天皇は『日本書紀』の崇神天皇で和迩君の祖の阿田賀田須が同じ「あた」の人物で、弟の建飯賀田須の家系は大神君、阿田賀田須の母は大倭國民磯姫で大倭根子の姫、阿田賀田須の祖母が紀伊名草姫で、尾張氏天戸目の子の建斗禾の妃は紀伊中名草姫と、阿田賀田須の祖父豊御氣主は紀伊国造と親族と考えられる。

『日本書紀』には「甘美内宿禰遂欲殺矣天皇勅之令釋仍賜紀伊直等之祖也」のように、応神天皇が甘美内宿禰を赦した時も、紀伊直すなわち紀伊国造は朝廷の配下に存在せず、『舊事本紀』の崇神天皇の時に「石見國造瑞籬朝御世紀伊國造同祖䕃佐奈朝命兒」とあるように、崇神天皇時代に紀伊國造が存在しては意味が通らない。

すなわち、崇神天皇の頃はまだ紀伊国造は存在せず『古事記』の木国造と考えられ、『日本書紀』に「名曰珍彦釣魚於曲浦」、「珍彦爲倭國造」、『古事記』に建内宿祢の義父が「木國造之祖宇豆比古」と、珍彦は開化天皇の頃に朝廷と対等の木国王で、『日本書紀』の倭國造は400年頃の葛城氏の2人目の神武天皇の時に倭國造になったと考えられ、また、曲浦出身の木国造の末裔が和迩臣・和迩君を名乗ったと考えられ、中名草姫の子は建手和迩と、手は和迩氏の統治者「たらし」に順ずる地位を表している。

それに対して、葛城氏は磯城彦葉江(天忍人葉江を襲名した天戸目)の娘の長媛を妃にして、葛城氏が大倭根子と天皇になり、 天皇の太瓊が細媛、姫の父は磯城彦大目で、天戸目の子の建斗禾の事を示すと思われ、大目は退位して葛城から宮を遷して十市彦となり、賦斗迩は磯城朝廷から政権を奪取し、葛城朝廷としたことを示している。

波延の孫の師木津日子の子の和知都美の娘が繩伊呂泥・蝿伊呂杼で波延が5代の間襲名されたことを示している。

すなわち、葛城氏の当主は三国・野洲の連合国に移住して、三国配下の神沼河耳が天皇・磯城彦の祖の川派媛を妃に、師木津日子玉手見が天皇・磯城彦の祖の天村雲・波延の娘の阿久斗比賣、大倭日子耜友は天皇になった磯城彦の祖の襲名した葉江(忍人)の弟の猪手(忍男)の娘の泉媛を妃にしたように、天皇・磯城彦と姻戚関係を結び、御眞津日子訶惠志泥は天忍人・葉江の娘の渟名城津媛、大倭帯日子国押人は襲名した天忍人の天戸目・葉江の娘の長媛を妃にして、とうとう皇位を得た。

退位した天戸目は建氏を賜姓されて建斗禾となり、大神氏と同氏族となり、天皇になった葛城氏は天戸目から禅譲されたわけではなく、大国王の一人の出雲醜大臣が尾張氏の倭志紀彦(磯城彦)の妹の真鳥姫を妃にして尾張氏天皇と姻戚になり、その大国王の姓の大臣を「三十一年春正月瀛津世襲命爲大臣」のように、葛󠄀木彦・羸津世襲は大国王となり、その子の忍男と押姫の兄弟が皇位を簒奪したと思われる。

しかし、その皇位を大国の欝色雄・鬱色謎・大彦に奪われ、葛城氏は若倭根子日子と若狭王になり、御間城に分家が宮を作って住み着き、天皇配下の大国王になった考えられる。

0 件のコメント:

コメントを投稿