2021年11月22日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第十一段

  日本書紀慶長版は「彦波瀲武草葺不合は叔母の玉依姫を妃とし、彦五瀬・稻飯・三毛入野・神日本磐余彦の四男を生み、彦波瀲武草葺不合が西の洲の宮で崩じ、日向の吾平山の上に葬った。」とある。 

すなわち、葬った場所は西に洲が有り、北に韓国への海がが有るので、日向国は東が海で伊都の日向の可能性が高い。

そして、『日本書紀』慶長版一書は一書()一書曰先生彥五瀬命次稻飯命次三毛入野命次狹野尊亦號神日本磐余彥尊所稱狹野者是年少時之號也後撥平天下奄有八洲故復加號曰神日本磐余彥尊」、【一書に、まず、彦五瀬を生む。次に稻飯。次に三毛入野。次に狹野。または神日本磐余彦と言う。狹野と言うのは、幼少の時の名だ。のちに天の下を平定して、八洲を統治した。それで、名を加えて、神日本磐余と言う。】と訳した。

さらに、『日本書紀』慶長版一書は一書()一書曰先生五瀬命次三毛野命次稻飯命次磐余彥尊亦號神日本磐余彥火火出見尊」、【一書に、まず五瀬を生み、次に三毛野、次に稻飯、次に磐余彦。または神日本磐余彦火火出見と言う。】と訳した。

そして、『日本書紀』慶長版一書は一書()一書曰先生彥五瀬命次稻飯命次神日本磐余彥火火出見尊次稚三毛野命」、【一書に、まず彦五瀬生み、次に稻飯。次に神日本磐余彦火火出見。次に稚三毛野。】と訳した。

そして、『日本書紀』慶長版一書は一書()一書曰先生彥五瀬命次磐余彥火火出見尊次彥稻飯命次三毛入野命」、【一書に、まず彦五瀬、次に磐余彦火火出見、次に彦稻飯、次に三毛入野。」と訳した。

続いて、『古事記』前川茂右衛門寛永版は「是天津日高日子波限建鵜葺草不葺合命娶其姨玉依毘賣命生御子名五瀬命次稲冰命次御毛沼命次若御毛沼命亦名豊御毛沼命亦名神倭伊波禮毘古命(四柱)故御毛沼命者跳波穂渡坐于常世國稲冰命者爲妣國而入坐海原也」、【この天津日高日子波限建鵜葺草葺不合はその叔母の玉依毘賣を妻として、生んだ子の名は、五瀬、次に稻氷、次に御毛沼、次に若御毛沼、亦の名は豐御毛沼、亦の名は神倭伊波禮毘古の四柱で、御毛沼は、波の穗を跳んで常世國に渡り、稻氷は、母の國の海原に入いった。】と訳した。

続いて、『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊天孫彦火々出見尊弟三子兒也亦云火芹尊也母曰豐玉姬命海童之大女也豐玉姬命弟玉依姬命立爲皇妃即海童之少女姬也誕生四御子矣兒彦五瀨命中賊矢薨也次稻飯命没海爲鋤持神三毛野命往常世郷次磐余彦命神武天皇」、【彦波瀲武鸕鷀草葺不合は天孫・彦火々出見の第三子で火折ともいう。母を豊玉姫という。海童の上の娘である。豊玉姫の妹の玉依姫を立てて皇妃として、すなわち、海童の下の

娘だ。四人の子を生んだ。子の彦五瀬は賊の矢にあたって死んだ。次に、稲飯で海に没して鋤持神となった。次に、三毛野で常世の郷に行った。次に、磐余彦で神武天皇だ。】と訳した。

それぞれ、神武天皇の名前が異なり、『古事記』は『日本書紀』一書()の 三毛入野の家系の人物を神武天皇とし、その御毛沼おそらく神国の毛野→若神国の毛野→豊神国の毛野と名前が推移し、三国→若狭→豊国(日向)と国を移動して日向から天皇に即位したと主張していると考えられる。

『日本書紀』は神話部分に 彦五瀬・稻飯・三毛入野の後の姿を記述せず、記録である神武紀に記述し、『古事記』・『舊事本記』は『日本書紀』を基にしているても、神話に入れて、『日本書紀』の神武天皇が物部氏の畿内侵入より以前の事であると示している。

そして、『古事記』から推理すると、神武天皇の建国が、三国王から始まり、葛城氏が若狭にいる時、崇神天皇が第二の神武天皇、そして、390年頃に第三の神武天皇の応神天皇建国したと解り、神が付く天皇は皇祖(神祖)の意味で、すでに、『舊事本記』に神武天皇と記述され、私は、以前、継体元号が始まったことから、継体天皇の時代から始まったと記述した。

『舊事本記』も『日本書紀』の雄略天皇から推古天皇までも、共に馬子達が記述して、同じ史観で記述され、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』の法興元丗一年は法興帝と自称していたことを示す

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