2021年12月31日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書11

  『日本書紀』は庚申年秋八月癸丑が朔の戊辰に、正妃立てようと。求め事代主神が三嶋溝橛耳の娘の玉櫛媛と共に生んだ子媛蹈韛五十鈴媛を見つけた。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「庚申年秋八月癸丑朔戊辰天孫當立正妃政廣求華雲時有人奏曰事代主神與三嶋溝撅耳神之女立櫛媛(?)生之鬼號曰姬媛蹈鞴五十鈴姬命是國色之秀者天孫悅矣九月壬午朔乙巳納媛蹈鞴五十鈴媛命為正妃」、【庚申年の秋八月癸丑が朔戊辰の日、天孫は正妃を立てようと、改めて、広く貴族の娘を探したときに、「事代主が、三島溝杭耳の娘の玉櫛媛と結婚して、生まれた子を名づけて、媛蹈鞴五十鈴姫といい容貌がすぐれた人だ」と言った。これを聞いて天皇は喜んだ。九月壬午が朔の乙巳の日、媛蹈鞴五十鈴媛を正妃とした。】と訳した。

庚申年秋八月癸丑朔は天文学的朔の日干支だが、 九月壬午朔は8月30日晦日で九州の暦になり、84年8月29日晦日が壬午で83年に景行天皇と同一視した王が熊襲國の高屋宮で六年経ち、「御刀媛則召爲妃生豐國別皇子是日向國造之始祖也」と御刀媛が翌84年に正妃となったと考えれば良く合致する。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「然更求爲大后之美人時大久米命(向)白此間有媛女是謂神御子其所以謂神御子者三嶋湟咋之女名勢夜陀多良比賣其容姿麗美故美和之大物主神見感而其美人爲大便之時化丹塗矢自其爲大便之溝流下突其美人之富登尓其美人驚而立走伊須須岐伎乃將來其矢置於床邊忽成麗壮夫即娶其美人生子名謂富登多多良伊須須岐此(比)賣命亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣(是者悪其富登云事後改名者也)故是以謂神御子也於是七媛女遊行於高佐士野(佐士二字以音)伊須氣余理比賣在其中尓大久米命見其伊須氣余理比賣而以歌白於天皇曰夜麻登能多加佐士怒袁那々由久袁登賣杼母多礼袁志摩加牟尓伊須氣尓(余)理比賣者立其媛女等之前乃天皇見其媛女等而御心知伊須氣尓(余)理比賣立於最前以歌荅曰賀都賀都母伊夜佐岐陀弖流延袁斯麻加牟尓大久米命以天皇之命詔其伊須氣余理比賣之時見其大久米命黥利目而思奇歌曰阿米都々知杼理麻斯登々那杼佐祁流計(斗)米尓大久米命荅歌曰袁登賣尓多陀尓阿波牟登和加佐祁流斗米故其嬢子白之仕奉也於是其伊須氣余理比賣命之家在狭井河之上天皇幸行其伊須氣余理比賣之許一宿御寝坐也(其河謂佐韋河由者於其河邊山由理草多在故取其山由理草之名号佐韋河也山由理草之本名云佐韋也)後其伊須氣余理比賣参入宮内之時天皇御歌曰阿斯波良能志祁去(志)岐袁夜迩須賀多多美伊夜佐夜斯岐忌(弖)和賀布多理泥斯然而阿禮坐之御子名曰(日)子八井命次神八井耳(命)次神沼河耳命三柱」、【しかし更に大后にする美人を求め、大久米が「ここに若い媛がいる。これを神子という。その神子という訳は、三島の溝咋の女の勢夜陀多良比賣の容姿が麗美だった。それで、三輪の大物主が、見染めて、その美人が厠を使っているとき、丹を塗った矢に化けて、その厠の溝から流れ下って、その美人の陰を突いた。それでその美人が驚いて、立ち上がって走って帰った。それでその矢を持って来て、床の縁に置くと、たちまち立派で勇壮な男に成って、その美人を娶って生んだ子は富登多多良伊須須岐比賣と言い、亦は比賣多多良伊須氣余理比賣、これは其の「ほと」というのを嫌って、後に名を改めた。と言った。だから、神子と言う。」と言った。そこで七人の若い媛が高佐士野で遊んでいて、伊須氣余理比賣がその中いた。そこで大久米が、その伊須氣余理比賣を見て、天皇に歌った(略)。ここで伊須氣余理比賣は、その若い媛達の前に立った。それで天皇は、その若い媛達を見て、伊須氣余理比賣が最前に立っているのを知って、歌で答えた(略)。そこで大久米は、天皇の命で、伊須氣余理比賣に言った時、大久米の入れ墨をした鋭い目を見て、奇妙に思って歌った(略)。そこで大久米は、答へて歌った(略)。それで、その少女が、「仕えましょう。

」と言った。それでその伊須氣余理比賣の家は狹井河の上流にあった。天皇は、その伊須氣余理比賣の許に行って、一晩泊まった。その河を佐韋河というのは、その河の辺に山百合が多く生えていた。それで、山百合の名を取って、佐韋河と名付けた。山百合の元の名は「さい」という。後にその伊須氣余理比賣が、宮の中に参上した時、天皇が歌った(略)。それで生まれた子の名は、日子八井、次に神八井耳、次に神沼河耳の三柱だ。】と訳した。

『古事記』は『日本書紀』・『舊事本紀』と異なる事項が多く、まず、皇后の名が五十鈴姫ではなく伊須須岐比賣・伊須氣余理比賣と違い、その父が事代主ではなく三輪の大物主で、大物主が祀られたのは崇神天皇の時で倭迹迹日百襲姫が説話の相手、『舊事本紀』は「高皇産靈尊詔大物主神・・・吾女三穂津姫命配」と、大物主は三穂津姫が妃で三穂が領地、大物主は大国の神茂の主のことで、「大田田祢古命亦名大直祢古命」と大田田祢古は亦の名が大直祢古で大国の王・大神の宮を守る王の意味、孫が大鴨積で、これが大国の神茂の神で「磯城瑞籬朝御世賜賀茂君姓」と崇神朝に賀茂君、「大田田根子今三輪君等之始祖」と大物主神の宮を守る王と合致する。

『日本書紀』も「問大田田根子曰汝其誰子對曰父曰大物主大神母曰活玉依媛」と『古事記』は「勢夜陀多良比賣」と神武は大田田根子と義兄弟になり、大鴨積の弟は「大友主命此命同朝御世賜大神君姓」と大友主で、垂仁天皇三年に「三輪君祖大友主與倭直祖長尾市於播磨」と時代が合致し、『古事記』のこの項の神武天皇は崇神天皇末の人物で、妻が大物主の阿田賀田須の娘の吾田姫となる。

『古事記』は伊須須岐比賣を神子、すなわち、岐神の子の岐比賣で天子と同等で、海の神の孫、天国王の子が陸の女王に婿入りした、天孫は女王の地に侵略してきたのだから婿入りして、その子は正統な女王の子で、侵略した国の継承者となることを示していて、磐余王は兄がいなくなったので天子を自称し、子の岐須美美が天孫であり、岐神子を継承し、伊須須岐比賣の妹伊須氣余理比賣を妃にし、王位を継承した。

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