2021年12月3日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』 類書 『舊事本紀』天孫本紀2

  舊事本紀前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は尾張氏の系図を後回しにして、「弟宇摩志麻治命亦去味間見命亦云可美真手命天孫天津彦火瓊々杵尊孫磐余彦尊欲馭天下與帥東征往々逆命者蜂起未伏中州豪雄長髄彦本推饒速日尊兒宇摩志麻治命爲君奉焉至此乃日天神子豈有两種乎吾不知看他遂勒兵距乃天孫軍連不能戡也于時宇摩志麻治命不従舅謀誅殺佷戻帥衆歸順之時天孫詔宇摩志麻治命日長髄彦為性狂迷兵勢猛鋭至於敵戰誰敢堪勝而不(?)舅計帥軍歸順遂欵官軍朕嘉其忠節特加裒竉授以神剱荅其大勲凡厥神剱韴靈剱刀亦名布都主神魂刀亦云佐士布都亦云建布都亦云豊布都神是矣覆宇摩志麻治命以天神御祖授饒速日尊天璽瑞寶十種壹而奉獻於天孫大嘉特増寵異矣覆宇摩志麻治命率天物部而翦夷荒逆亦帥軍平定海内而(?)也・・・」、【天香語山の弟の宇摩志麻治、または味間見といい、または可美真手という。天孫天津彦火瓊々杵の孫の磐余彦は、天下を治めようと思い、軍をおこして東征したが、所々に命令に逆らう者たちが蜂のように起こり、従わなかった。中国の豪族の長髄彦は、饒速日の子の宇摩志麻治を君主として仕えていた。「天神の子が二人もいるはずがない。他にいるなど知らない」と言い、兵をととのえて防戦した。天孫の軍は連戦全て勝てなかった。このとき、宇摩志麻治は伯父に従わず、戻ったところを誅殺した。そうして軍を率いて帰順した。天孫は、宇摩志麻治に「長髄彦は性質が狂っている。兵の勢いが勇猛で、敵として戦ったが勝てなかった。しかし伯父に従わないで、軍を率いて帰順したので、官軍は勝てた。その忠節がうれしい」と詔勅し、神剣を与えて、大きな勲功に応えた。その神剣は、スパッと切れる霊剣、または布都主神の魂の刀、または、さす布都といい、または建布都といい、または豊布都というのがこれだ。また、宇摩志麻治は、天神の祖が饒速日に授けた天の璽・瑞宝十種を献上した。天孫はたいへん喜び、さらに寵愛した。また、宇摩志麻治は、天物部を率いて暴れる逆賊を斬り、また、軍を率いて海内を平定して復命した。】と訳した。

饒速日を降した場所が「葦原中國」で、長髄彦は中州の豪族と記述しているので、長髄彦は当然中州の王、中国の長の州の根王の意味・長門の王と考えられる。

畿内に「ながすね」という地域は無く、鳥見であったので、『古事記』には登美毘古と記述し、名前と侵略した土地の王の名が一致して、やはり、根国が複数有り、根国と言うのは、太柱の礎石を置く朝廷の宮殿を立てた地域が根国と呼ばれたことを意味し、始祖王・神が根、継いだ王が根子と解る。

そして、物部氏は、宇摩志麻治が大国の神「五十呉桃」の娘に婿入りし、子が「木開足尼」と大国の根を支配(足らす)し、大神「久流久美」の娘との子が「大祢」と大国の神となり、「出雲色多利姫」との子の出雲醜が出雲王と大国の王の一人となり、「倭志紀彦妹真鳥姫爲妻」と天皇の姫を娶って、義弟となり、すなわち、「 大祢」が饒速日で出雲醜が「宇摩志麻治」で「志紀彦」が「長髄彦」と、物部神話の神武紀の一つと言える。

大国王の大祢と姻戚になった尾張氏の葛城王は孝安天皇の時、倭足彦と八国王と出世し、「足尼次爲宿祢奉齋大神其宿祢者始起此時」と尾張氏が大国を統治して、物部氏は足尼を賜姓されたが、葛城氏が天皇の後継者の細姫を皇后にして政権を奪取すると、物部氏は大臣すなわち大国王に戻り、葛城氏は鬱色謎を妃にして大国を得て大八国の天皇となり、物部氏は天皇の姻戚として大国王の大臣・大尼を名乗った。


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