『日本書紀』は秋八月甲午が朔の乙未、 菟田縣を攻め弟猾を味方につけの兄猾を滅ぼした。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀』は「秋八月甲午朔乙未天孫使徵兄猾及弟猾者是兩人㝹田之魁帥者也時兄猾不來弟猾即詣至因拜軍門而告之曰臣兄々猾為逆狀也聞天孫且到即起兵將襲望見皇師之威懼不敢敵乃潛伏其兵權作新宮而殿内絕機欲因請饗以作難願和此詐善為之善備天孫即遣逍臣察其逆狀時道臣命審知有賊害之心而大怒誥嘖之曰虜尓(?所)造屋尓自居之因案劔彎弓逼令催入兄猾獲罪於天事無(?所)辭乃自蹈機而壓死時凍其屍而斬之流血没踝故号其地日㝹田血原巳而弟猾大設牛酒以勞饗皇師焉天孫以其酒寅卒乃爲御謠之日于僕能多伽機珥辞藝和耶破蘆和餓未㝹夜辤藝破佐夜羅孺伊殊區波辞區(?泥 ヒ→エ)羅佐夜離固奈(氵+弥)餓那居波佐磨多知曽麼能未迺那鶏勾塢居氣辞被恵祢宇破奈利餓那居波佐麼伊知佐介幾未迺於朋鶏勾塢居氣僕被恵祢是謂來目歌今樂府奏此歌者猶有手量大少及音聲巨細此古之遺式也是後天孫欲省吉野之地乃從㝹田穿邑親卒輕兵巡幸焉至吉野時有人出自井中光而有尾天孫問之曰汝何人對曰臣是國神名爲井光是則吉野首部遠始祖也更少進亦有尾而披磐石而出者天孫問之曰汝何人對曰臣是磐排別之子此則吉野國巢部始祖也及緣水西行亦有作粱取魚者天孫問之對曰臣是包苴擔之子則阿大養鸕部始祖也」、【秋八月甲午が朔の乙未の日、天孫は兄猾と弟猾を呼んだ。菟田の県の頭だが、兄猾は来ず、弟猾だけ来て軍門でお辞儀して「私の兄の兄猾は反逆し、天孫が来ると聞いて、襲撃しようと軍勢を見ると、勝てないと思って、兵を隠して、仮の新宮を造り、御殿の中に仕掛けを設けて、もてなすように見せかけて、殺そうとしている。お願いだからこの謀略を知って、備えて」と教えた。天孫は、逍(?道)臣を派遣して、その計略を調べさせ、道臣は反逆を考えていると知って、「こいつめ。造った部屋に、自分が入れ」怒って叱った。そして、剣を構え、弓をつがえて追いつめた。兄猾は、天をあざむいたので、罰が当たり、みずから仕掛けに落ちて圧死した。動かない屍を斬ると、流れる血はくるぶしが没するほどに溢れ、その地を菟田の血原という。弟猾は、肉と酒を用意して、皇軍をもてなした。天孫は酒肉を兵士に分け、歌(略)って踊った。これを来目歌という。いま、楽府でこの歌を歌うときは、手を大小に拡げ声の太さ細さがある。これは、昔の遺法だ。この後、天孫は吉野の地を見たいと、菟田の穿邑から軽装の兵をつれ行った。吉野に着き、井戸の中から出てきた人がいた。その人は、井戸が光って尻尾が有るようだった。天孫は、「お前は何者だ」と聞いた。「私は国王で、名は井光と言う」と答えた。これは、吉野の首部の始祖だ。さらに進むと、また尾が有るように見える人が岩をおしわけて出てきた。天孫は、「お前は何者だ」と尋ねた。「私は磐排別の子だ」と答えた。これは、吉野の国の栖部の始祖だ。川沿いに西に行くと、また梁を設けて漁をする者がいた。天孫が尋ねると、「苞苴担の子だ」と答えた。これは、阿太の養鵜部の始祖だ。】、と訳した。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は「故随其教覺從其八咫鳥(烏)之後幸行者到吉野河之河尻時作筌有取魚人尓天神御子問汝者誰也荅白僕者國神名謂贄持之子(此者阿陀之鵜養之祖)從其地幸行者生尾人自井出來其井有光尓問汝者誰也荅白僕者國神名謂井氷鹿(此者吉野首等祖也)即入其山之亦遇生尾人此人押分巌而出來尓問汝者誰也荅白僕者國神名謂石押分之子今聞天神御子幸行故参向耳(此者吉野國巣之祖)自其地蹈穿越幸宇陀故曰宇陀之穿[指聲]也故尓於宇陀有兄宇迦斯弟宇迦斯二人故先遣八咫鳥(烏)問二人曰今天神御子幸行汝等仕奉乎於是兄宇迦斯以鳴鏑待射返其使故其鳴鏑所落之地謂訶夫羅前也將待撃云而聚軍然不得聚軍者欺陽仕奉而作大殿於其殿内作押機待時弟宇迦斯先参向拝曰(白)僕兄(ゝ)宇迦斯射返天神御子之使將爲待攻而聚軍不得聚者作殿其内張押機將待取故参向顯白尓大伴連等之祖道臣命久米直等之祖大久米命二人召兄宇迦斯罵詈云伊賀所作仕奉於大麻(床)内者意礼先入明白其將爲仕奉之状而即握横刀之手上弟(矛)由氣矢刺而追入之時乃己所作押見打而死尓即控出斬散故其地謂宇陀之血原也然而其弟宇迦斯之獻大饗者悉賜其御軍此時歌曰宇坐能多加紀尓志藝和那波留和賀麻都夜志藝波佐夜良受伊須久波斯久治良佐夜流古那美賀那許波佐婆多知曽婆能微能那祁久袁許紀志斐恵泥宇波那理賀那許婆佐婆伊知佐加紀微能意富祁久袁許紀陀斐恵泥疊(亜)々志夜胡志夜此者伊能碁布曽阿々志夜胡志夜此者嘲咲者也故其弟宇迦斯(此者宇陀水取等之祖也)自其地幸行到忍坂大室之時生尾土雲八十建在其室待伊那流故尓天神御子之命以饗賜八十建於是死(充)八十建設八十膳夫毎人佩刀誨其膳夫等曰聞歌之者一時共斬」と、前後はするがほゞ『舊事本紀』と同様である。
秋八月甲午朔乙未は天文学的朔の日干支で、朝廷の資料である。
三書に出現する神武東征で出現する人物は、概ね名前どうりの支配者になっているのに、弟宇迦斯は菟田縣主ではなく猛田縣主になり、ところが、菟田主水部の祖となっている。
すなわち、侵略した王が菟田縣主になった可能性が高く、その領地の中に吉野・猛田邑があって、其々の地の王にしたように考えられる。
すなわち、其々の説話は同じ人物の説話ではなく、紀元前663年に吉備から出発した王の説話に、河内國草香邑青雲白肩之津に侵略した説話を、茅淳山城水門に侵略した王の説話に彦五瀬の説話を、菟田縣に侵略した菟田彦の説話のようにつなげ、命令者は事代主と考えられる。
野洲王の事代主は大国・小国を領有していた三国と同盟して、農耕に適した広大な大和盆地を得ようと、大国配下の小国王が河内や紀伊から侵略し、菟田彦が伊賀方面から侵略し、その配下に剱根がいて、磐余に住み着いたと考えられる。
事代主の名が「~八」でも八子でも無い事から、事代主の神は三(国)神の耳で三国王家の神の一人が火火出見・足耳・神武天皇で、事代主に婿入りして八国を手に入れ、そして、皇太子は手耳で、葛城氏は足耳が支配する神倭国の配下で、この時代は母系天皇なので実質の天皇は事代主・玉櫛媛でその娘蹈韛五十鈴と吾平津媛の子の手耳が後を継いだが、吾平津媛は恐らく曰向國吾田邑出身ではなく、武甕槌神が平定した場所で私が平定した国、「吾平國」なのではないだろうか。
神倭磐余彦は三国の手耳と八重事代主の連合国で三八国の磐余のリーダーと考えられる。
大己貴神が高皇産靈の子達に国譲りした時、『舊事本紀』に「歸順之首渠者大物主神及事代主神」と『古事記』では磐余彦の義父が大物主とされ、高皇産靈の娘の「三穂津姫」と三国の姫のところに婿入りし、すると、高皇産靈が三嶋溝撅耳となり三穂津姫が溝撅の娘の玉櫛媛を想定され、巨勢氏が書いた『古事記』は同じ葛城氏の史書でも、母親が三国出身のために、影響されたのだろうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿