2021年12月10日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書2

  『日本書紀』は冬十月丁巳が朔の辛酉に東征を初め、速吸之門で珍彦が曲浦にいて、天神子迎え、案内人とし、椎根津彦と名付け倭直部の始祖で、菟狹にき菟狹國造の祖の菟狹津彦・菟狹津媛が一柱騰宮で饗応し、天種子が菟狹国王を後ろ盾に中臣の遠祖と記述している。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀』は「・・・是年也太歳甲寅冬十月丁巳朔辛酉天孫親帥諸皇子舟帥東征至速吸門時有一漁人乘艇而至天孫招之因以問曰汝誰也對曰是國神名日珎彦釣魚於曲浦聞天神子來故即奉迎又問曰汝能為我導耶對曰導之矣天孫敕授漁人椎梯末令執而牽納於皇舟以為海導者乃時賜名為椎根津彦此即倭直部始祖也行至築紫㝹狹時有㝹狹國造祖号曰㝹狹津彦㝹狹津姬乃於㝹狹川上造一柱騰宮而奉饗矣是時敕以㝹狹津媛賜妻之於侍臣天種子命其天種子命者是中臣氏之遠祖也・・・」、【この年は大歳の甲寅である。その年の冬十月丁巳が朔の辛酉の日に、天孫は自ら諸皇子と船軍を率いて、東征に向かった。速吸の門に着いた時、一人の漁師がいて、舟に乗ってやってきた。天孫は、呼び寄せ「お前は誰か」と聞いた。「私は国王で、珎彦だ。曲浦で釣りをして、天の神子が来ると聞き、迎えに来た」と答えた。また、「私のために、水先案内をしないか」と聞いた。それで「案内しよう」と答えた。天孫は、漁師に梯子を差し出し、つかまらせて船の引き入れ、水先案内にした。そこで、名を椎根津彦とした。これが倭直部の始祖だ。進んで、筑紫の莵狭に着いた。すると、莵狭国造の祖で、莵狭津彦・莵狭津姫がいた。莵狭の川上に、一柱あがりの宮を造っておもてなした。このとき、莵狭津姫を侍臣の天種子に娶あわせた。天種子は、中臣氏の遠祖だ。】と訳した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上』は「・・・太歳甲寅冬十月丁巳朔辛酉親帥諸皇子發自西宮舩師東征見天孫紀・・・」、【太歳甲寅年の冬十月丁巳が朔の辛酉の日に、みずから諸皇子を率いて西宮を立ち、船団で東征した。[天孫本紀に見える]】と訳した。

甲寅冬の丁巳朔は11月1日で、閏月によるズレの可能性があるが、『海外南經』の西南陬、丈夫國宗像の東の結匈國の東南に「南山在其東南」と南山が有り、「蟲為蛇蛇號為魚」と蛇の様に蛇行する水上の魚の様に動くと、船の比喩にピタリに記述し、この南山が曲浦で、珍彦の神話の流用と考えられる。

珍彦は名前の通り「う津」の日国王で、天国王に従軍して菟狹に侵略して、菟狹王になり、天種子を婿にして、天種子が中洲に侵略して中の国王の中臣氏となった説話を葛城氏が流用し、珍彦の後裔の椎根津彦は葛城神武が4世紀に大和に侵略したとき、共に活躍して、『古事記』に「娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢」と建内宿祢の活躍で木国造になって、葛城氏と共に行動を共にしたと考えられる。

そして、『日本書紀』に「珍彦爲倭國造」と倭国造となったと考えられ、大和が首都なのに、大和王など全くの矛盾で、葛城氏が河内王朝を設立した時に、首都でなくなり、初めて大和王となったと考えられる。

最初の記録が10月朔の理由は莵狭津彦の元年の記録を、高千穂宮と考えられる伊都で朝廷を開いていた年表に当て嵌めて、紀元前667年の10月丁巳朔と記録し、それを、『日本書紀』に移行したと考えられ、この日は中国では10月が年始だったので、高千穂宮の元年が10月丁巳朔だった可能性が高く、莵狭津彦も任命したと考えられる。

『史記』前221年秦始皇二十六年「改年始朝賀皆自十月朔」と10月に年賀を行い、『漢書』前104年武帝太初元年五月に「正曆以正月為歲首」と1月を年始とし、前104年太初元年は「太初元年冬十月・・・十一月・・・十二月・・・二月・・・夏五月・・・秋八月・・・二年春正月戊申」と二月より前に10~12月があって10月年始が証明されていて、この東征開始説話は前104年より前の説話であることは理解できる。

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