2021年12月24日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書8

  『日本書紀』は十有二月癸巳が朔の丙申、長髓彦に勝てず、饒速日と三炊屋媛亦の名は鳥見屋媛の子の可美眞手が協力して長髓彦を討って可美眞手は歸順し、饒速日は物部氏の遠祖とある。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀 』は「十二月癸巳朔丙申皇師遂擊長髓彦連戰不能取勝時忽然天陰而雨水乃有金色靈鵄飛來止于皇弓之弭其鵄光嘩熅狀如流電由是長髓彦軍卒皆迷眩不覆力戰長髓是邑之本号焉因亦為人名及皇軍乃得鵄瑞也時人因号鵄色今云鳥見是訛矣昔孔舎衛之戰五瀬命中矢而薨矣天孫銜之常懐憤懟至此(?+)也意欲窮誅乃爲御謡之日(+)々都々志倶梅能故還餓何波起珥破介(+)羅毘荅曽(?)餓毛荅曽祢梅屠那(?)弖于荅弖之夜莾務覆謡之日(+)々都々志倶梅能故還餓介耆茂等珥宇恵志破餌介(+)勾致弭比倶伊和例破涴輸例儒于智弖之夜(?)因覆縦兵急攻之凡諸御謡皆謂來目歌此的取歌者而名也時長髓彦乃遣行人言於天孫曰嘗有天神之子乘天磐舩自天降止号曰櫛玉饒速日尊是取吾妹御炊屋媛遂有兒息名曰宇摩志麻治命為君而供奉焉至此乃日天神之子豈兩種子而奈何更(?)天神之子以奪人地乎吾不知有他亦吾心推之未必爲信乎天孫曰天神之子亦多耳汝(?)爲君是實天神之子者必有表物可相示之長髓彦即取饒速日尊之天羽々矢一隻及步靭以奉示天孫天孫覽之曰事不虛也還以(?)御天羽々矢一隻及步靭賜示於長髓彦長髓彦見其天表蓋增踧踖然凶器巳構其勢不得中体猶守迷圖無覆改意宇摩志麻治命本知天神慇懃唯天孫是與且見夫長髓彦凛性戻浪不可教以天人之(?+)乃謀殺舅帥衆歸順焉巳未年春壬戌朔甲子詔日天孫饒速日尊兒宇摩志麻治命舅長髓」、【十二月癸巳が朔の丙申の日、皇軍はついに長髄彦を討とうと、戦いを重ねたが、なかなか勝てなかった。ある時、急に空が陰り、雨になり、そこへ金色の不思議な鵄が飛んできて、皇の弓の弭にとまった。その鵄は光り輝いて、稲妻のようだった。このため、長髄彦軍は、みな眩惑されて戦えなかった。長髄は、もと邑の名で、それで人名とした。皇軍が鵄の瑞の兆しを得て、人はここを鵄邑と名づけた。今、鳥見というのはなまったものだ。昔、孔舎衛の戦いで、五瀬が矢に当たって死んだ。天孫は轡を持つと、いつも憤った。この戦いで、殺しつくそうと思い、歌った(略)。それで、また兵を従えて急襲した。すべて諸々の歌を、みな来目歌といい歌い伝えてきたからだ。ときに、長髄彦の使者が、天孫に「昔、天神の子がいて、天の磐船に乗って天から降った。名を櫛玉饒速日と言い、妹の御炊屋姫を娶って子を生んだ。子を宇摩志麻治と言う。それで、共に君として仕えてきた。いったい、天神の子は二つの家系なのか。どうして、天神の子と名のって、人の土地を奪うのか。ほかにいるなど、聞いたことがない。お前は偽者だろう」と言った。天孫は「天神の子はたくさんの神々がいる。お前が君とするのが、本当に天神の子なら、きっと表す物がある。それを見せろ」と言った。長髄彦は、饒速日の天の羽羽矢一隻と、歩靫を天孫に示した。天孫は見て「本当だ」と言い、帰って持っている天の羽羽矢一隻と、歩靫を長髄彦に示した。長髄彦は、その天のしるしのついた蓋を見て、ますます不安になったが、兵器を向けられ、その勢いを止められなかった。なおも、間違い惑い、改心もしなかった。宇摩志麻治は、もとから天神が礼儀正しく、天孫と知っていた。また、長髄彦は、戻る波のように激しく、天と人の祀りを教えられず、伯父を殺して、部下たちを率いて帰順させた。己未年の春の壬戌が朔(正しい日干支)の甲子の日に、「天孫の饒速日の子の宇摩志麻治は、伯父の長髄 (※ 以下脱文)】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「故尓迩藝速日命参赴白於天神御子聞天神御子天降坐故追参降來即獻天津瑞以仕奉也故迩藝速日命娶登美毘古之妹登美夜毗賣生子宇麻志麻遅命(此者物部連穂積臣妹(婇)臣祖也)」、【そこに迩藝速日がやって来て、天神の子に白ししく、「天神の子が天から降ったと聞いた。それで、追って降って来た。」と言って、天津の瑞を献上して、迩藝速日が登美毘古の妹の登美夜毘賣を娶って生んだ子の宇摩志麻遲(物部連・穗積臣、婇臣の祖)は仕えた。】と訳した。

十二月癸巳朔は12月2日で12月1日の前日が29日で11月晦日朔を11月30日、壬辰が晦日と考えて翌日を朔としたと思われれ、九州の暦で、この説話は中(なか)国のもので、長州の名を取り長髄彦で、それを、鵄の説話で鳥見をこじ付け、大和の説話に挿げ替えたと思われる。

可美眞手も可美葦牙彦舅と同じ地域の人物、可美葦牙彦舅が葦原中國の始祖神で可美眞手は手耳が皇太子、脚摩乳の助けとなる手摩乳と同じように、可美眞手が皇太子と記述していると思われる。

古代は皇后が最高権威者で、皇后の弟や父親が権力を握り、皇后の子が権力の手先で権力を行使したと考えられ、三炊屋媛・鳥見屋媛が権威者、長髓彦・鳥見彦が権力者で可美眞手が行使者で、もっとも古い『日本書紀』は治めることを手と表意文字を使い、『古事記』は表音文字の遅を使い、『舊事本紀』は表意文字が治だとしたことが解る。

巳未年春壬戌朔は天文学的朔の日干支だが、『日本書紀』には記述されず、推古天皇の時代までこの日干支の記録が残っていたか、『日本書紀』からこの日の記述を削除したかで、この記事が途中で途切れているところから、葛城系の蘇我氏の馬子にとって不都合な記述だったことが解り、『日本書紀』も記述しなかったか本文を削除したと考えられる。

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