2021年12月29日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書10

 『日本書紀』は三月、役人に帝宅を造らせたとある。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「庚辰詔有司經始帝宅天太玉命孫天宮命率手置帆負彦狹智二神之孫以齋峯齋鉏始採山材構立正殿故(?)謂於畝傍之橿原也太立宮柱於底磐根峻峙博風於高天之原而始馭天下之天皇草創天基之日也因皇孫命之瑞御殿造供奉矣其裔孫忌部(?)居紀伊國名御本麁香二鄉其採材忌部(?)居謂之御本造殿忌部(?)居謂之麁香是其縁矣古語正殿謂麁香」、【庚辰の日に、役人に命じて宮殿を造り始めさせた。天太玉の孫の天宮は、手置帆負と彦狭知の二神の孫を率いて、祀る斧と祀る鋤で、山の原材を伐り、正殿を構え建て始めた。それで、畝傍の橿原に、太い宮の柱を底の礎岩に立てて、高天原へ高くそびえ、はじめて天の下を治めた天皇が、国政を創めた日だ。それで、皇孫のめでたい御殿を造り、仕えている。この末裔の忌部は、紀伊国の御木郷と麁香郷の二郷にいる。材木を伐る役目を持った忌部がいるところを御木といい、御殿を造る忌部のいるところを麁香という。これが、由来だ。古い語葉で、正殿を麁香という。」と訳した。

『日本書紀』は己未年三月と記述され、いつか分からないが、『舊事本紀』が3月19日と述べているようだが、内容を検証すると、天宮が造ったと、まさしく神倭王朝の首都建設で、畝傍で伝統道理に穴を掘りそのそこに磐を置いて、その上に大黒柱を建てて、柱が屋根の重みで沈下しないようにしたと述べている。

ここの主人公は祀られた神の太玉、子の大宮賣、太玉の孫天宮で、最高位の人物の宮を作らせた王は大宮賣夫婦で、おそらく『舊事本紀』の間違いで、天宮は大宮賣の夫で神武天皇の一人、その子は天留(富)で忌部の祖のことだと考えられる。

すなわち、本来三月壬戌朔庚辰だったものが三月辛酉朔と合わないので、『日本書紀』は削除したが、『舊事本紀』は三月壬戌朔を削除して記述したと考えられ、御木や麁香に残る説話を使用したと考えられる。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「故如此言向平和荒夫琉神等退撥不伏之人等而坐畝火之白檮原宮治天下也故坐日向時娶阿多之小椅君妹名阿比良比賣生子多藝志美美命次岐須美美命二柱坐也」、【それで、このように荒々しい神達を従わせて穏やかにし、屈服しない者達は打ち払って、畝火の白梼原の宮に居て、天の下を治めた。それで、日向にいた時、阿多の小椅君の妹の阿比良比賣を娶って生んだ子が、多藝志美美、次に岐須美美の、二柱がいた。】と訳した。

『日本書紀』には、「日向國吾田邑吾平津媛」で日向国は景行天皇十二年に出現し、「豐國別皇子是日向國造之始祖」と景行天皇以降に出来たと考えられ、神武天皇の時代は「火闌降命即吾田君小橋等之本祖」と日向国では無く、阿比良姫は葛城神武日向襲津彦の母の日向髪長大田根の可能性が高い。

岐須美美はおそらく、岐州三神の意味で、『山海經』の君主国の君が岐州からの派生で岐須美美は岐州三国の神で「天日方奇日方」は海士の日神の方(?海岸:洲に対する潟)、岐州の日神の方(?海岸)を意味するのではないだろうか。

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