『日本書紀』は己未年二月壬辰が朔の辛亥に、層富縣の新城戸畔・居勢祝・猪祝の土蜘蛛皆誅し、高尾張邑の土蜘蛛を殺し、葛城・磐余・埴安の名を付けた。
磐余は「因改號其邑曰葛城夫磐余之地舊名片居」と葛城のことで、磐余彦は葛城氏の任地の役職名と解り、天皇の名は葛城氏の名前だと証明し、天皇は橿原宮にいて、名をつけるなら橿原彦である。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「已未年春二月辛卯朔庚辰道臣命率軍兵而
撥伏逆賊之狀奏矣戊午宇摩志麻治命率天物部而翦夷逆賊復師軍兵而平定海内狀奏矣」、【己未年の春二月辛卯が朔の庚辰の日に、道臣は、軍を率いて逆賊を討ち従えた様子を奏上した。戊午の日、宇摩志麻治は、天の物部を率いて逆賊を斬り平らげ、また、軍団を率いて海内を平定した様子を奏上した。】と訳した。
『日本書記』の己未年二月壬辰朔は天文学的朔の日干支だが、二月辛卯朔は1月30日晦日、九州の暦で、物部氏が朝廷に関与するのは崇神天皇の時からで、この『舊事本紀』の説話は本来違う時代の説話と考えられ、この日干支の近辺で「平定海内」と、とある領域を平定したような事件は517年1月29日晦日が辛卯で、翌年、「遷都弟國」と遷都して、秦王国建国の可能性が有る。
太秦(うずまさ)の秦が秦国からの表意文字で秦王国も当然、歴史ある秦国からその名を付けた可能性が高い。
『日本書紀』は三月辛酉が朔の丁卯に、中洲は穏やかで「夫大人制」とすなわち「なか国」に大人国の制度を施行して六合を併せて都開八国風のしめ縄を張って都を開こうと言った。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「三月辛酉朔丁卯下令曰自我東征於茲六年
矣賴以皇天之威凶徒就戮雖邊土未清餘妖尚梗而中州之地無復風塵誠冝恢廓皇都(?矢+見)
摹大壯而今運屢長蒙民心朴素巣栖穴住習俗惟常夫大人立制義必隨時苟有利民何妨聖造且當披拂山林經營宮室而恭臨寶位以鎮元々上則荅乾靈授國之德下則弘皇孫養正之心然後兼六合以開都掩八紘而為宇不亦可乎覩夫畝傍山東南橿原地者蓋國之墺區乎」、【三月辛酉が朔の丁卯の日、令(のり)をくだして仰せになった。「私が東征について六年だ。神々の力で凶徒を殺したが、辺地はまだ静まらない。残党の力はまだ根強いが、中国の地には微塵も無い。皇都をひろめて御殿を真似て立派に造ろう。いま、巡りあわせはまだまだだが、民の心は素直である。人々は洞窟に草を敷いて住んで、習俗は一人前だが、大人の制度を立てて、道理がいつも有る。もし民に利益有というなら、聖人が造ることを誰も妨げない。山林を開き、宮室を営み、謹んで宝の位に臨で根本を鎮め、上は北西の霊が国を授けた恵に答え、下は皇孫が持っている正しい心を広めよう。その後、都をひらいて六合に含め、八の大綱を大きなやねの下におおうのは、また良いことではないか。見たところ、畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の水際の地だ」】と訳した。
三月辛酉朔も2月30日晦日で、九州の暦で、内容も、中州が平穏で、『山海經』の『海外南經』の六合や聖人と合致し、『海外東經』の大人國・大国の制度は聖人が造って、自分たちも聖人の末裔だと言っている。
聖は「ひじり・日後」で日国の人々と理解でき、三八(神倭)王朝の伝統的なしめ縄がある宮殿を造って都としようとしたと述べ、日国出身の王が書いた説話を『日本書紀』が流用したと考えられる。
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