2021年12月6日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』 類書 『舊事本紀』天孫本紀3

  舊事本紀前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は続けて、「・・・天孫磐余彦尊詔命有司始經帝宅大歳辛酉正月庚辰朔天孫磐余彦尊都橿原宮初即皇位号日元年尊皇妃姫(?)五十鈴姫命立爲皇后即大三輪神女也宇摩志麻治命先獻天瑞亦堅神楯以齋矣謂五十櫛亦云今木判繞於布都主剱大神奉齋殿内即蔵天(?)瑞寶以爲天皇鎮祭之時天皇寵異特甚詔日近宿殿内矣因號足尼其足尼之號自比而始矣髙皇産霊尊兒天富命率諸齋神部擎天璽鏡剱奉安正殿矣天兒屋命兒天種子命奏神代古事天神壽祠也宇摩志麻治命率内物部乃竪矛楯嚴増威儀道臣命帥來目部帯仗常其開(?)衛護宮門矣並使四方之國以観天位之貴亦(?)率土之民以亦朝廷之重者也于時皇子大夫率臣連伴造國造而賀正朝拝矣凡厥建都即位践祚賀正如是之儀並始此時也宇摩志麻治命十一月朔庚寅初齋瑞寶奉爲帝后鎮祭御魂祈請壽祚其鎮魂之祭自此而始者矣詔宇摩志麻治命日汝先考饒速日尊自天受來天璽瑞寶以此爲鎮毎年仲冬中寅爲例有司行事永爲鎮祭矣所謂御鎮祭是也凡厥鎮祭之日猿女君等主其神樂擧其言大謂一二三四五六七八九十而神樂歌儛尤縁瑞寶盖謂斯與二年春二月甲辰朔巳巳天皇定功行賞詔宇摩志麻治命日汝之勲功矣念惟大功也公之忠節焉思惟至忠矣是以先授神靈之剱崇報不世之勲令配股肱之軄永傳不貮之美自今巳後生々世々子々孫々八十聯綿必胤此軄永爲龜鏡矣此日物部連等祖宇摩志麻治命與大神君祖天日方奇日方命並拜為申食國政大夫也其天日方奇日方命者皇后之兄也但申食國政大夫者今大連大臣是矣凡厥奉齋瑞寶而祈鎮壽祚兼崇霊剱而治護國家如此之事裔孫相承奉齋大神具件如左」、【天孫磐余彦は、役人に命じてはじめて宮殿を造り始めた。辛酉年の庚辰が朔日の日に、磐余彦は橿原宮に都を造り、はじめて皇位についた。これを、皇位の元年とした。皇妃の姫蹈鞴五十鈴姫を皇后とした。皇后は、大三輪の神の娘である。宇摩志麻治がまず天の瑞宝を献上し、神盾を立てて祀って五十櫛、または、木を、布都主剣のまわりに刺し巡らして、大神を宮殿の内に祀った。そうして、天の璽の瑞宝を納めて、天皇のために鎮め祀った。このとき、天皇の寵愛は特に大きく、「殿内の近習になれ」と詔勅した。それで足尼と名づけた。足尼は、ここから始まった。(※役割は概略)天富は、天の璽の鏡と剣を安置した。天の種子は、寿詞を奏上した。宇摩志麻治は国を固めた。道臣は門番となった。それから、四方の国々に天皇の位の貴さを示し、国の民を従わせ、これが朝廷の重責とした。このときに、皇子・大夫は、臣・連・伴造・国造を率いて、賀正の朝拝をした。このように都を建てて皇位に即位し、年の初めに儀式をするのは、このときから始まった。宇摩志麻治は十一月朔が庚寅の日、はじめて瑞宝を祀り、天皇と皇后のために、魂を鎮め祭って長寿を祈り、鎮魂の祭祀はこのときに始まった。宇摩志麻治に詔して仰せられた。「お前の父の饒速日が天から授けられてきた天の璽の瑞宝をこの鎮めとし、毎年仲冬の中寅の日を例祭とし、ずっと鎮めの祭りとせよ」詔勅した。いわゆる“御鎮祭”がこれだ。およそ、その鎮祭の日に、猿女君達が神楽の主として言挙げして、「一・二・三・四・五・六・七・八・九・十」と大声でいって、神楽を歌い舞うことが、瑞宝に関わっているのはこのことだろう。治世二年春二月甲辰が朔の巳巳(乙巳)の日、天皇は論功行賞を行った。宇摩志麻治に「お前の勲功は大功である。お前の忠節は思えば忠この上ない。それで、神靈の剣を授けて類いない勲功を崇め、報いた。いま、一番頼みとする職と共に、永く二つとないと称えよう。今より後、子々孫々にずっと、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑となれ」と詔勅した。この日、物部連の祖の宇摩志麻治と、大神君の祖の天日方奇日方は、ともに、食国の政大夫に任じられ、天日方奇日方は、皇后の兄である。食国の政大夫とは、今でいう大連・大臣だ。そして宇摩志麻治は、天の璽の瑞宝を祀り、天皇の長寿と幸運を祈り、また霊剣をあがめて国家を治め護った。このことを子孫も受け継いで、大神を祀り、詳しくは以下に述べる。】と訳した。

辛酉正月庚辰朔は『書記』と同じで、天文学的日干支と合致するが、皇后は大三輪神ではなく事代主、宇摩志麻治は出現せず、地位も足が付く役職は足彦・足姫で道臣が『書記』と合致するのみで、二年春二月甲辰朔乙巳も『書記』と同じ日干支で、日付と日臣の内容を『書記』から流用したと考えられる。

日臣が祖という大伴氏は物部氏・中臣氏を含めて垂仁天皇の時にも賜姓されておらず、朝廷の官僚とは言えず、大夫も崇神朝に「諸大夫等歌之曰」と出現するのみなので、この説話は崇神天皇の時の説話と考えられる。

前660年十一月朔庚寅は丙子で、この日干支は物部氏の資料と考えられ、実際は孝元天皇が「立欝色謎命爲皇后」と欝色謎が皇后になって、その時に物部氏から天の璽を得たと考えられる、紀元前208年の11月晦日が庚寅で、物部氏にとっては、この皇后になった時の祭礼が物部氏にとっての神武元年で、それを、神武天皇の元年に当て嵌めたと考えられ、祭祀関係は晦日が朔の暦を使用していることが多い。

天神の天は『山海經』の海内で黄海に接していて、帝俊が「三身之國」を生み、中国は『三国志』以前は晦日に日食を記述して、朔が晦日だったため、黄海に接する九州や天神の出身地の六合も晦日が朔の習慣が有ったと考えられる。

以降に系図は記述する。

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