2021年12月13日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書3

  『日本書紀』は十有一月丙戌が朔の甲午に筑紫國の岡水門、十有二月丙辰が朔の壬午に安藝國の埃宮、乙卯年春三月甲寅が朔己未に吉備國の高嶋宮にいて三年間で、舟・兵糧を蓄えて、平定の準備をした。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀』は「・・・十一月丙戌朔甲午天孫至筑紫國岡水門十二月丙辰朔壬午至安藝國居于埃宮乙卯年春三月甲寅朔己未從入吉備國起行宮以居之是曰高嶋宮積三年間楯舟檝蓄兵食將欲以一舉而平天下也・・・」、【十一月丙戌が朔の甲午の日に、天孫は、筑紫国の岡水門にいた。十二月丙辰が朔の壬午の日に、安芸国の、埃宮にいた。乙卯年の春三月甲寅が朔の己未の日に、吉備国に入り、行宮を造っていた。これを、高嶋宮という。三年のうちに船・兵器・兵糧を蓄えて、一挙に天下を平定しようとした。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「神倭伊波禮毗古命與其伊呂兄五瀬命二柱坐高千穂宮而議云坐何地者平聞看天下之政猶思東行即自日向發幸御筑紫故到豊國宇沙之時其土人名宇沙都比古宇沙都比賣二人作足一騰宮而獻大御饗自其地遷移而於竺紫之岡田宮一年坐亦從其國上幸而於阿岐國之多祁理宮七年坐亦從其國遷上幸而於吉備之高嶋宮八年坐故從其國上幸之時乗龜甲爲釣乍打羽擧來人遇于速吸門尓喚歸問之汝者誰也荅曰僕者國神又問汝者知海道乎荅曰能知又問從而仕奉乎荅白仕奉故尓指渡槁機引入其御舩即賜名号槁根津日子此者倭國造等之祖・・・」、【神倭伊波禮毘古 その兄の五瀬と二柱は、高千穗宮に居て「どこに行けば上手く天の下の政権を取れるだろう。東に行こう。」と相談して、それで、日向を立って筑紫に行った。それで、豐國の宇沙に着いた時、その国の人で名は宇沙都比古、宇沙都比賣の二人が、足一騰宮を作って、大饗宴を開いた。そこから移って竺紫の岡田宮に一年いた。そしてその國から上って、阿岐國の多祁理宮に七年いた。またその國から遷り上って吉備の高島宮に八年いた。それで、その國から上った時、亀の甲に乗って、釣りを止めて来る人と、速吸門で遭った。呼び寄せて、「お前は誰だ」と聞くと、「私は國神だ。」と答へた。又、「お前は海の道を知っているか。」と聞くと、「よく知っている。」と答へた。又、「私に仕えるか。」と聞くと、「仕へます。」と答えた。それで梯子を指し渡して、船に引き入れて、名を与えて、槁根津日子と名付けた。倭國造の祖。】と訳した。

十一月丙戌朔は12月1日大寒で、11月では有り得ず、十二月丙辰朔も1月1日雨水で、 九州の暦の11月晦日朔、11月晦日朔の変換間違いも考えられるが、閏月によるズレも否定できず、乙卯年春三月甲寅朔は天文学的朔と合致し、朝廷の記録と考えられ、少なくとも、吉備国は畿内朝廷の勢力下だったと解り、『古事記』や『舊事本記』に「建日方別」と記述されているのは、後代の結果を反映させたのかも知れない。

天の海は黄海・シナ海で中国の領域と『山海經』は述べ、帝俊が『大荒南經』「帝俊妻娥皇生此三身之國」と九州南部と考えられる地域から侵略して日国を3国に分裂させたと記述しているので、建日を足がかりにした国で「肥国謂建日別」・「熊襲國謂建日別」・「吉備兒嶋謂建日方別」がその領域と考えられ、燕が帝俊の活動範囲と考えられ、倭人も行動を共にし、建日が倭奴国の基の国と考えられ、筑紫・豊はまだ倭奴国ではなく、六合の領域に入り、秦・前漢の時代に筑紫が倭奴国の領域になったと考えられる。

『古事記』には竺紫の岡田宮に一年、阿岐國に七年、吉備に八年居住したとしているが、『日本書紀』は筑紫が甲寅年、安藝國も甲寅年、翌年の乙卯年に吉備國、3年後の戊午年に出撃し、全く異なっていて、『古事記』の資料は葛城神武の記録と考えられ、『日本書紀』が葛城神武の東征を流用したと考えられ、この時期に中国の燕が北方民族に侵略され、倭人が東に膨張した結果、筑紫や豊前・豊後が影響を受けたのかもしれない。

従って、宗像の東の曲浦の王の珍彦が莵狭から木国造、さらに、反正天皇は「生干淡路宮」と淡路で皇太子が誕生していることから、淡路島の王となっていて、建内宿祢と姻戚になり、さらに、都が河内になったことで、倭国造となったことを示している。

応神天皇は270年即位の応神天皇、405年が応神天皇十六年で「百濟阿花王薨」の記事が当てはまる390年即位の応神天皇と、420年が応神天皇二五年で「百濟直支王薨」の記事が当てはまる396年即位の応神天皇が存在し、390年頃はまだ珍彦が木国造、396年に即位した応神天皇が406年に磐余稚櫻宮から河内柴籬宮に首都を移転し、この時、418年に記述される倭直吾子篭が倭国造となったと考えられる。

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